Here We Go!!
ヘネシス

 青い空。白い雲。爽やかに吹き渡る風。煌く太陽。
 草は青々と萌え、一面に花は咲き乱れ、豊かな実りを約束している。
 大陸の南にある街。
 〈平和〉の象徴である街、ヘネシスに兄弟はやってきていた。


 「……結構暑いな……」
 木陰に座りこんで、九十朗が呟く。
 彼の装備は、金属の胸当てと脛当てに変わっている。全身鎧ではないものの、かなりの重量だ。更に、内部には熱が篭りやすい。
 ヘネシスの陽気には断じて適していない。
 そのせいで戦士の街、ペリオンはあんな北方にあるのではないか、と彼は邪推しつつあった。
 一方、傍らに立つ兄が涼しい顔をしているのは、決して弟より体力がある訳でも、暑さに強い訳でもない。
 次郎五郎の装備は、鎧ではなく、身軽な衣だったからだ。
 そんな布一枚の装備など、九十朗にしてみれば危なっかしくて仕方ないが、状況をよく見極めて戦う兄は、今のところさほど窮地には陥っていない。
 市場の賑わいをぼんやりと眺めていた二人は、その一角が不意にざわめいたのに気づいた。
 物売りの呼び声や、子供の笑い声とは違う。酷く不穏な気配が漂ってきている。
 素早く立ち上がって剣に手をかけた九十朗を、次郎五郎は片手で止めた。
「こんなところで抜くんじゃない。……様子を見よう」
 人ごみが、自然に分かれた。その間から姿を見せたのは、十人ほどの弓士。
 揃いの革鎧の胸には、見覚えのある紋章が輝いている。
 街のあちこちに掲げられた旗に染め抜かれているものと、同じ。
 弓士は、兄弟の周囲に展開した。その回りを、ざわめく人々が取り囲む。
「……警備隊の方々が一体何の用で?」
 冷静に、次郎五郎が尋ねた。隊長らしき一人が数歩、歩み出る。
「我らが弓士の長、ヘレナ様がお会いしたいとのことだ。ご案内する」
 横柄なその言葉に、見物人は大きくざわついた。
「お断りすることはできるのかな」
 隊長は、その返答を待ち構えていたかのように、にやりと笑った。
「そちらが嫌がることは何もないと思うのだが?」
 部下の手にしている弓には、既に矢がつがえられている。構えてはいないが、指示があれば一瞬でこちらへ向けてくるだろう。
 彼らとの間には充分に距離を取られている。その一瞬で反撃は不可能だ。
 次郎五郎は小さく肩を竦めた。
「言ってみただけだよ。……どちらに行けばいい?」
 満足そうに、隊長は踵を返した。
 誰も、気づいていなかったかもしれない。
 次郎五郎の手が、今にも斬りかかりそうな九十朗の手首をがっちりと掴んでいたことを。


 弓士の長がいるという館は、ヘネシスの街でも特に閑静な一角にあった。
 玄関をくぐると、こざっぱりとした広間に出る。
 その広間は二階までの吹き抜けになっていて、大きな窓から陽が射しこんでいた。
「連れて参りました、ヘレナ様」
 大声で隊長が報告する。
「ご苦労様でした」
 涼やかな声が、上階から聞こえた。
 階段を登りきったところに、一人の女性が立っていた。

 弓士特有の軽装備に身を包んで、優雅に階段を下りてくる。アッシュ・ブロンドの長い髪に陽の光が煌いていた。
 生真面目な瞳はまっすぐにこちらを見つめている。
 凛とした、という表現が一番似合うだろう。
 だが、二人の少年が呆気に取られているのは、彼女の美しさに見とれていた訳ではない。
 まず第一に、特徴のある、その耳。
 明らかに人のそれではない。
 ヘネシスには、エルフの血を引く一族がいると噂に聞いていたが、彼女がその一人か。
 そして、彼女はせいぜい二十歳そこそこという若さだったということ。
 弓士の長、という仰々しい肩書きには似合わない年齢だ。
「わたくしが、この大陸における弓士の長、ヘレナです」
「……俺は次郎五郎。こちらが弟の九十朗。お目にかかれて光栄です」
 少年の口調こそ穏やかだったが、視線の強さは決して礼儀正しいものではない。
「宜しければ、拘束理由をお聞かせ頂けますか?」
 直情的な九十朗と違い、次郎五郎は怒りが募るほど冷静になる。危険な兆候を悟って、九十朗は自らの怒りも忘れて身震いした。
「凶兆を感じたのです」
 神託を告げる巫女のような言葉に、次郎五郎が僅かに眉を寄せた。
「……凶兆?」
「凶つ星に連なる者が、二名、この街に入りました。その時刻にやってきて、未だ街に留まっている者は、貴方がた以外にいません」
 小さく、次郎五郎は溜息をついた。
「何かと思えば、ばかばかしい」
「ばかばかしい、ですって?」
 ヘレナの、形のいい眉が吊り上がる。
「俺たちが、何か知らないうちにでもヘネシスの法や習慣に触れる行動でもしたかと思って、おとなしくここへ来たんだ。それが何だ? 貴方の気に食わない人間が来たからと言って、無辜の冒険者を拘束するような街なのか、ここは?」
 次郎五郎の言葉に、ヘレナだけでなく、周囲の警護隊からの敵意も膨れ上がる。
 兄の手が、既に自分を抑えていないことに、九十朗は気づいていた。いざとなれば実力行使もやむなし、といったところか。知らず、口元に小さな笑みが浮かぶ。
「そもそも、何だ? 『凶つ星に連なる者』、か? 俺たちはまだ駆け出しの冒険者だ。そんなハッタリの効いた二つ名、逆立ちしたって背負える訳じゃない。こんな青二才に一体何の脅威があるっていうんだ?」
「今の貴方がたに脅威がある訳ではありません。しかし、将来、必ずや貴方がたは平和を侵す者となるでしょう。そうなってからでは、遅すぎます」
 断固とした口調で、ヘレナは反論した。
「ですから、貴方がたをヘネシスから永久追放とします。二度と、この地方へ足を踏み入れないよう」
「冗談じゃない!」
 次郎五郎が、大きく片腕を振った。
「ヘネシスは、この大陸の要所だ! その近辺に近寄れないなんて、一体どんな厳罰なんだ!」
 だが、弓士の長は、その冷たい顔を崩しもしなかった。
「どれほど抗議したところで、貴方がたの存在が変化する訳ではありません。……連れて行きなさい」
 警備隊に命じた言葉に、周囲の弓士たちが近づく。
 次郎五郎でさえ、次の行動に迷ったその時。

「やりすぎではないかね、ヘレナ」
 入り口から、静かな声がかけられた。
 その場にいた全員の視線が集中する。
 そこにいたのは、一人の老人だった。
 すっかり白くなった頭髪の下に、いかにも頑固そうな瞳が光っている。杖を手にしてはいるものの、身体は頑健らしく、しゃんと立っている。
「長老……」
 警備隊の中から呟きが漏れる。
「スタン長老。何がおっしゃりたいのですか」
「先刻言った通りだ。やりすぎではないのか? お前にそこまでの権限はない」
「ヘネシスを護るのがわたくしの役割です」
 高らかに、ヘレナは宣言した。
「その通り。だが、法と罰を司るのは、長老たる儂だ。お前が、彼らに処罰を下すことはできない」
「しかし……!」
「見たところ、彼らにどのような罪状があるのか、儂には判らんのだがね」
 小柄な老人は、長身のヘレナを睨め上げた。年の功か、あからさまに彼女はたじろいだ。
「……では、この者たちについては、貴方が責任を持つとおっしゃるのですね?」
「よかろう」
 重々しく頷くのに、彼女は奥歯を噛みしめた。
「何かあってから泣きついてこられても、遅いのですからね!」
 言い捨てると、素早く階段を登っていく。
 ことの成り行きに呆然としている少年たちに、長老は視線を向けた。
「……まあ、そういう訳だ。陋屋だが、我が家へ来るといい」


 長老の屋敷は、連行された建物から通り一つ挟んだ場所にあった。
 なるほど、窓も扉も開け放った状態であれほど大声を出していれば、長老も騒ぎを聞きつける訳である。
 品のいい居間に通されて、ソファに腰を下ろす。
「迷惑をかけたようだ。ヘレナに代わって、儂がお詫びしよう」
「いえ。助け舟を出して頂いて、ありがとうございます」
 次郎五郎が頭を下げるのに、九十朗も倣う。
「あの娘も、普段はあそこまで物分りが悪い訳ではないのだが」
 憮然としてスタンが言う。次郎五郎は思わず苦笑いを浮かべた。
「よほど俺たちがお気に召さなかったのですかね」
「あの娘に、何かしたのかね?」
「いえ。多分先ほどのが初対面ですよ。お目に止まるような幸運は持ち合わせていません」
 中年の女性が、紅茶を持ってきた。当たり前だが、これもかなりの品だ。
 冒険者の常として、普段は野宿だし、たまに街に泊まる時でさえ安宿がせいぜいの二人には、災い転じて福なのかもしれない。
 尤も、感謝する気にはならないが。
 それでも、彼らに対する批判は引っこめることにして、次郎五郎は話題を変えた。
「しかし、長老様と、弓士の長が別の人間だ、というのには驚きました。俺たちはリスとカニングシティ、ペリオンにしか行ったことはありませんが、戦士や盗賊の長は長老を兼ねていましたから」
 スタンが自嘲気味の笑みを浮かべる。
「それだけ旅していれば、大陸の大半は知っているだろう。……ヘネシスは、確かに特殊だ。遥か昔には、他の街と同じく一人が兼任していたものだが、二百年ほど前に役割が分かれてしまった」
「何か曰くでも?」
「いや。ただ、弓士としての能力と、長老として民を束ねる能力がそれぞれ傑出した兄弟がいたのだ。どちらか一人が二つの役割を担うには、あまりにももう一人の才が勿体ない。そこで、二つの家に分け、役割を分割したというだけの話だ。……何度か、また一つに戻りそうな動きもあったのだがな」
 兄と長老の話が退屈だったのか、九十朗はこっそりと周囲を見回していた。その視線が、飾り棚で止まる。
「あれ?」
 ひょい、と立ち上がって飾り棚へ近づく。
「九十朗」
 たしなめるような兄の言葉を無視して、九十朗は棚を覗きこんだ。
「申し訳ありません」
「いや。しかし、そんな面白いものがある訳でもないが」
「やっぱりそうだ。来いよ、次郎」
 二人の会話を遮り、九十朗が兄を呼んだ。
「お前なぁ……」
 呟きながら、近づく。
 九十朗が見つめていたのは、大人の掌ほどの大きさの、楕円形の額だった。その中には、家族の肖像画らしき絵画が飾られている。
 男はスタンだろうか。まだ髪はブラウンを留めていた。その隣に儚げに微笑む女性が座り、一人の子供が間に立っている。
「ほら、これ。アレックスじゃねぇ?」
 九十朗は子供の姿を指差す。
 背後で、物が倒れる音がした。
 振り返ると、スタンが紅茶のカップを倒している。まだ残っていた中身は、ライトブラウンのテーブルの上を広がり、滴り落ちて絨毯に染みを作っていた。
「長老様……?」
「お前たち、アレックスを知って……」
「あ、やっぱりアレックスなんだ。長老さん、ひょっとしてあいつの親父さん?」
 九十朗の言葉に、スタンが我に返った。
「……いや、違う。そこにいる息子は既に死んだ」
「え?」
「妻が死んだ後まもなくして、息子も死んだのだ。……無作法で申し訳ないが、少し休ませていただきたい。くつろいでいてくれ」
 口早にそう告げると、スタンはそそくさと居間を出て行った。呆気にとられて、それを見送る。
 次郎五郎が肖像画に視線を戻した。
 まだ、十歳になるかどうかという少年。赤い髪はきちんと撫でつけられており、こざっぱりとした身なりをしている。が、頬に残るそばかすの痕といい、あのふてくされたような甘えた表情といい、カニングシティで知り合った情報屋の少年とそっくりである。
 扉が、微かな音を立てて開いた。スタンが戻ってきたのかと思ったが、現れたのは先ほどの女性であった。
 ティーカップが倒れているのに、慌てて駆け寄る。
 こぼれた紅茶を一通り拭いた後も、ちらちらとこちらを伺いながら手を動かしている。
「……どうか?」
 次郎五郎の言葉に、びくりと身体を震わせる。が、きっかけになったのか、まっすぐにこちらを見つめてきた。
「あの、先ほどのお話なのですが。アレックス様をご存知でいらっしゃるのですか?」
「ええと、貴方のおっしゃるアレックスと同一人物かどうかは判りませんが。この肖像画の子供によく似た、アレックスと名乗っている少年なら知っています。カニングシティで会いました」
 女性の目に、みるみる涙が溢れてきて、次郎五郎がぎょっとした。思わず弟を振り返るが、彼も同じぐらい身体を引いている。
「ああ、アレックス様……。アレックス坊ちゃま。ご無事でいらっしゃったのですね……」
「あの……」
 恐る恐る声をかけると、彼女はエプロンの裾で目を拭った。真っ赤になった顔で、それでも笑ってみせる。
「お見苦しいところをお見せして、申し訳ございません。あの、それでアレックス様はどうして暮らしていらっしゃるのですか?」
「俺の知るところでは、情報屋みたいなことをしていましたが」
「まあ!」
 驚いたように叫ぶと、再び彼女はエプロンに顔を埋めた。
「まあ、おいたわしい……。そのような下賎な生業で生活していらっしゃるとは。ああ、ただでさえカニングシティなんて柄が悪い無法者ばかりの土地だというのに! お気の毒なアレックス様……」
「いや無法て」
 小さく九十朗が呟く。
 この平和なヘネシスの、しかも長老の屋敷に勤めるような女性にはその程度の認識しかないのかもしれないが。
 ともかく、二人は彼女を宥めすかして、何とか落ち着かせることに成功した。

「ええ、貴方さまがたのおっしゃられるのが、きっとアレックス様です。スタン様のご長男でいらっしゃいました」
 まだ時折鼻を鳴らしながら、彼女は話し出した。
「こう申し上げては何なのですが、スタン様は厳しいお方です。長老としてはそれでも宜しいのですが、息子であるアレックス様はそれに酷く反発していらっしゃいました。反発といっても、面と向かってというわけではなかったので、年と共に解決すると思っていたのですが」
 だが二年前、母親の死をきっかけに、二人の仲は断絶したらしい。スタンは勘当を言い渡し、アレックスは家を飛び出したのだ。
「家族って、そんなに仲が悪くなれるものなのか?」
 腑に落ちない様子で、九十朗が呟く。次郎五郎は何も返さなかった。
「おそらくは、ヘレナ様のこともあるのだと思います」
「ヘレナ様が?」
 いきなり、弓士の長の名前が出てきて、二人が戸惑う。
「ええ、あの、ここだけのお話にして頂きたいのですが」
 彼女は声を潜めて、続けた。
「ヘレナ様は、アレックス様の許婚なのでございます」
「……いぃ……っ!?」
 二人が思わず大声で訊き返そうとするところを、すばやく彼女は口を手で塞いだ。
「……でも、アレックスは多分十五・六ってところですよね。それで彼女は……」
「ヘレナ様は今年で十八におなりですから、確かに年上ではいらっしゃいますけど」
 十八。
 思ったよりも若いらしい。それだけ大人びているのは、弓士の長という重責故か。
「確かに親同士の決めた許婚ではあります。二つの家が一つに戻る、というのはどちらの家も望んでいることですし。それに、お二人も大層お似合いでいらっしゃいました」
「へぇ」
 あのアレックスが。
 あのヘレナと。
 ちょっと想像がしづらくて、九十朗は生返事を返した。
「奥様がお亡くなりになられる少し前、ヘレナ様は弓士の長という地位に就かれました。アレックス様はまだ十三歳でしたし、誰もお二人を引き比べたりはしていなかったのですが……」
 未来の長老という地位と、未来の妻の地位。
 そのプレッシャーに負けて、逃げ出したというところか。
「ヘレナ様はお気の毒なほど憔悴されて、それでも一心にお仕事にうちこんでいらっしゃいました。スタン様も、今年の春に酷い病気をされて……。今はもう、身体は回復しておられますが、心は弱られたままなのです。お二人とも、内心、アレックス様に戻ってきて欲しいと願われているのですが……」
 また泣き出しそうになるのを堪える。
 次郎五郎と、珍しく九十朗も、黙って考えこんでいた。


「兄貴」
 客間に通されてすぐ、九十朗が口を開く。
 無言で、次郎五郎は弟を振り返った。
 この弟が自分を兄呼ばわりするときは、大抵の場合既に意志が固まっているのだ。
「俺が何を考えてるか、判ってるんだろ?」
 問われて、兄は小さく溜息をついた。
「まあな。……お前は、ああいうのに弱いから」
「手を貸してくれるか?」
 苦笑して、次郎五郎は弟の髪の毛をくしゃくしゃにした。
「当たり前だろ。兄弟なんだ」

 夕暮れが迫る頃、ヘレナは長老スタンの家に呼ばれた。
 昼間の少年たちの件で、何か思いなおすところでもあったのか。そう思い、彼女はそのまま使いの女性についていったのだが。
「ヘレナ……? 何故、ここに」
 庭先にいた長老が驚いたように訊くのに、目を見張る。
「わたくしは貴方に呼ばれて来たのですが」
「儂に?」
 二人で首を傾げているところに、玄関が開く。
「申し訳ない。呼びつけたのは俺なんです」
 家の中から出てきたのは、二人の少年だった。
「君らが、何故……」
「とうとう、おとなしく追放刑を受け入れるつもりになったのかしら?」
 銀髪の兄が、大人びた仕草で肩を竦める。
「残念ながら、ハズレです。……まあ、ちょっと話を聞いてください」
 広い庭の片隅に、ベンチがあった。老人と女性をそこへ座るように促す。
「さて、と。長老様は薄々察していらっしゃると思いますが。俺たちは、カニングシティでアレックスに会ったことがあります」
「アレックスに!?」
 ヘレナが、驚愕の声を上げる。対して、スタンは顔を背けていた。
「それは、別人だ」
 低く、声を絞り出す。
「別人だ。儂の息子のアレックスはもう死んだ」
「おじさま、まだそのようなこと……!」
 ヘレナは、傍らの老人に縋りつくように叫んだ。
 次郎五郎が、淡々と続ける。
「俺たちは孤児です。庇護され、反発するような親は持たなかったし、美しく聡明な年上の女性に恋したこともない。だから、貴方がたの間にどんな確執があったのか、聞いても決して理解できないでしょう。……ただ」
 ふ、と次郎五郎は視線を落とした。力なく持ち上げた二つの掌を見つめる。
「大切なひとを失った時の辛さや悔しさや悲しさや怒りは……知っていると思う」
 言葉もなく、スタンとヘレナは彼らを見つめていた。
「このまま時を過ごして、決定的に大切なひとを失ってしまった場合、貴方がた三人は決して後悔しないと言い切れますか?」
 その問いに、父親と恋人は視線を逸らす。
 次郎五郎が、断固とした声を響かせた。
「俺たちが、アレックスを連れて帰ってきます」
「無理よ、そんな……。彼は、ここの生活に嫌気が差して出て行ったのだもの」
 弱々しく、ヘレナが呟く。
「ここに永住させる、というのは今は無理かもしれません。だけど、いつでも故郷に戻れるという安心感を持たせてやりたいんです。……いいですか?」
 最後の、許可を求めるのは止めておいた方がよかったのかもしれない。
 今までの苦悩とアレックスに会えるかもしれない、という思いで流されかけていた意志が、その一言で自らの職務を思い出した。
「そんなことを言って、このまま逃げ出すつもりではないの?」
 ほんの一瞬で、彼女は恋に傷ついた少女から弓士としてこの街の警備を担う者としての顔になっていた。
「いやそんなつもりはないけど……。いなくなったらなったで好都合なんじゃないんですか?」
 その反応が少しばかり予想外で、問い返す。
「わたくしが望んでいるのは、貴方たちの永久追放なの。逃げ出されて、いつかこっそり戻ってこられたりしたら、意味がないわ」
「ヘレナ、何もそこまで……」
 スタンがとりなそうとするが、彼女も既に意地になっている。
 腕を組んで、次郎五郎が提案した。
「じゃあ、こうしましょう。カニングシティには、九十朗が行きます。俺はこちらに残っている。弟がここへ帰ってこれなければ、俺を煮るなり焼くなりすればいい」
「次郎!?」
 九十朗が、思わず声を上げた。
 二人がごねた場合、こうして二手に分かれる、というのは事前に検討していた。が、煮るなり焼くなり、などということは聞いていない。
 いくら何でも、そんな犠牲をだしてまでアレックスを連れ帰るつもりはない。
 今にもそう言い出しそうな弟の機先を制する。
「落ち着けよ、兄弟。絶対にアレックスを説得するんだろうが」
「そりゃ……そうだけど、でも」
「なら大丈夫だ。思い出せ。俺たちが本気になったら……」
 次郎五郎が、まっすぐ拳を弟に向ける。同じように拳を作り、九十朗は正面からそれに触れさせた。
「太陽の動きでさえ、簡単に止められるんだ」
 呪文のようにそう唱えて、二人は笑みを浮かべた。
「……もう一つ、条件があるわ」
 ヘレナが静かな声で言い添えた。
「その子とアレックスが帰ってくるまで何日も、何ヶ月も待つなんて意味がないわ。失敗して戻れないのか、逃げたのか判別できないんですもの。だから、期限を決めさせてもらいます」
「……まあ、そりゃ道理だな」
 次郎五郎が同意するのに、満足そうにヘレナは微笑んだ。
「期限は、二日。明後日の日没までに戻ってこなければ、貴方がたは私の判断に必ず従うこと」
「二日だと!?」
 スタンが大声を上げた。
 ヘネシスとカニングシティは、実は結構遠い。街道が、この大陸唯一の港町、リスに接続しているために、途中で大きく蛇行しているからだ。
 しかも、街を一歩出れば、そこにはモンスターが出没する。さほど強くないとはいえ、道程が長ければ遭遇する数も多くなる。
 並みの冒険者なら片道一日半はかかるところだ。
 ……何を考えている。
 スタンは目を細めた。
 自分のように、ヘレナはアレックスと大喧嘩をやらかした訳ではない。いや、知らないところで何かあったのかもしれないが、それでもこの二年間の彼女の素振りを見ていれば、戻ってきて欲しいと望んでいることは明らかだった。
 それとも、それほど、この少年たちを忌み嫌っているのか。
 そんな長老の思いをよそに、次郎五郎は弟を振り返った。
「二日か。行けるな、九十朗?」
「ああ」
 軽く答えると、九十朗は鎧の留め金に手をかけた。ばちん、という音を響かせて次々に装備を外していく。
 最終的に革製の鎧下だけになると、今度は腰に佩いていた剣を外した。流石に置いていくことはしないのか、剣帯を肩からたすき掛けにかける。
 が、剣は柄のところで剣帯に繋いであるだけなので、それだけでは余計に邪魔だ。
「ちょっと待て」
 次郎五郎が、腰の袋から細い縄を取り出した。それで、剣帯と鞘の先の方をしばる。
「よし、いいぞ。行ってこい」
「おぅ!」
 黒髪の少年は、僅かに身を屈めると、いきなり走り出した。長老の屋敷を取り囲んでいる、決して低くはない塀に足を掛け、反動で一気に越える。
 呆気にとられてそれを見送っている長老と弓士の長に、余裕の表情で次郎五郎は声をかけた。
「じゃあまあ、俺は明後日の夕方まではのんびりしていますね。流石に疲れたので、これで失礼します」
 そうして、彼も屋敷の中へと姿を消していった。


 翌日、次郎五郎が起きだしてきたのは昼近くになってからだった。
 元々朝は弱い方だが、慣れない上等の寝台に却って眠れなかったのだ。
 恐縮する次郎五郎に、スタンは素っ気なかった。
 が、それは彼を非常識だと責めているのではなく、帰ってくるかもしれない息子のことを考えているからだろう。
 おおよそのところは予想通りである。
 軽い食事を摂ってから、少年はふらりと街へ出た。

 前日の市場での騒ぎ、弓士の長の館での騒ぎ、そして夕方の長老の館での騒ぎは、既に街中に広まっているようだった。
 まあそれを意図していたから、夕方の話し合いは室内でなく庭で行った訳だが。
 街の人々が次郎五郎に向ける視線は、好奇心に溢れている。
 ヘレナの物騒な言いがかりを知らない訳ではないだろうが、今でさえ最低二人の弓士がこっそりと次郎五郎の後を尾けている。それが人々にある種の安心感も与えていた。
 そういう訳で、次郎五郎は至極堂々と歩き回ることができたのだった。

「だからさー、悪い子じゃないんだよね、アレックスも」
 公園のようなヘネシスの街の一角で、次郎五郎は木陰に座っていた。傍には、何故か着ぐるみを身につけた子供がいる。
 生返事をして、次郎五郎は冷えたプラムにかじりついた。先ほど、近くの屋台で買い求めたものだ。
「お母さんが昔から体が弱かったみたいで? 随分可愛がられてたらしいんだ。それにまあ、ヘレナ様もああいう性格だから」
「アレックスを不甲斐なく思ってたとか?」
 相手が食べ終わったようなので、籠を差し出してやる。嬉しそうに、一際大きいプラムを選んでいった。
「ありがとー。ていうか、そうじゃないんだ。むしろ、ヘレナ様はアレックスを守ってあげたいっていうか? 母性本能をくすぐられてたみたいだよ」
「ふぅん」
 自分で話している内容に問いかけるな。
 そうツッコミたかったが、どうでもいいので放っておく。
「ところでちょっと訊きたいことがあるんだが」
「え、なになに? ひょっとして、リナさんの秘密の恋人のこと?」
「誰だそれは」
 瞳を輝かせて話し出そうとするのを遮る。
「人を探してるんだ。心当たりがあったら、教えてくれ」


 夕暮れになって、次郎五郎は長老の屋敷近くへ帰ってきた。
 ゆっくりと歩きながら、街路に咲き乱れている花壇を覗いている。
「何か、ご用?」
 冷たい声がかけられるのに視線を向ける。
 自宅の窓から、ヘレナがこちらを睨みつけていた。
「歩いていただけですよ」
 さらりと返すが、彼女の眉間の皺は更に深くなった。
「色々と嗅ぎ回ってくれたらしいじゃないの」
「あれは世間話ですよ。残念ながら、俺は貴方とアレックスの間のゴシップには興味がないんです。どっちにしろ、九十朗はもう行ってしまっているんだから、今更何を調べたって仕方ない」
 手応えのなさに諦めたのか、彼女の体からやや力が抜ける。
「……貴方、弟さんが間に合うと思っているの?」
「ええ」
 次郎五郎は、傍らの街路樹に背中を預けた。
「九十朗の足の速さは、ちょっとしたものですよ。俺がついていったら、そうでもなかったでしょうが。あいつなら、今頃はもうカニングシティに着いている」
 その言葉に、僅かに息を飲む。しかし。
「……でも、それじゃ殆どとんぼ返りになるわ。アレックスを説得する時間なんて、ない……」
 言いかけて、ふと思いついた考えを口にする。
「まさか、アレックスもずっと戻りたいと思ってたの? だから、こうして貴方たちにきっかけを作ってもらって」
「さあ?」
 無責任な言葉に、ヘレナがむっとした。
「他人の気持ちなんて、推し量れるものじゃないでしょう。アレックスの気持ちなんて、アレックスにしか判らない。……自分で判ってたら、上等かな」
「……そうね。貴方たちが全然判らないわ。何故、こんなことをしたの?」
 次郎五郎が苦笑する。
「九十朗が望んだからですよ」
「……それだけ?」
「俺たちが孤児だということは、昨日話しましたよね。物心つく前から、兄弟二人きりで、野良犬のような暮らしをしてきたんです。そのうちにある人に拾われて、俺たちは初めて二人だけじゃなくなった。……あの頃が、一番幸福だったな」
 陽はとっくに沈んでいた。徐々に暗がりが深まり、目を凝らさなければ、相手の表情など判らない。
「その人は……?」
 恐る恐る、という風に問いかけられる。
「今は一緒にいません。……だから、ね。九十朗は貴方たちが羨ましいんですよ。あいつは素直だから、望めばいつでも戻る場所があって、迎えてくれる人もいるのに、それを見ない振りしているのが辛いんでしょう」
「貴方は?」
「俺は素直じゃないから、羨ましくありません」
 初めて、ヘレナがくすりと笑った。
「戻ってくると、いいな……」
「そうですね」
 濃暗色をした空に、幾つか星が瞬いていた。


 翌日も、ヘネシスでは前日とほぼ同じように時間が過ぎているようだった。
 午後を回った頃、次郎五郎は街の安宿を回って聞き込みを続けていたが、いきなり背後から肩を掴まれた。反射的に払いのけ、跳びのこうとするが、相手を視界に入れて動きを止めた。
 それは、疲労困憊した警備隊の一人だった。
 背後には、次郎五郎についていた仲間の警備隊員が二人、戸惑った顔で立ち尽くしている。
「ま……街中、探し回ってたんだぞ……。どうしてそんなに動き回るんだ」
「いやそんなこと言われても」
 困った顔で次郎五郎が呟く。
 次郎五郎を見張っていた者は、彼が不法な行為をすれば止める、程度の認識だったのだろう。今どこにいる、という報告はしていなかったらしい。
 何とか呼吸を整えて、警備隊員は次郎五郎の腕を掴んだ。
「ヘレナ様がお待ちだ。早く来い」
「けど、俺はまだ用事が……」
 反論しかけるが、事情を察した残りの二人も加勢に近寄ってくる。諦めて、彼は両手を軽く上げてみせた。

 西門に近い広場に連れて行かれて、次郎五郎は唖然とした。
 そこには多くの住民が詰めかけ、色とりどりの旗で飾られ、雑多な露店が並んでいる。
 どうやら、これはアレックスの帰郷を祝う演出らしい。
 だが、この場所にあのアレックスが戻ってくる場面を思い描いて、次郎五郎は頭を抱えたくなった。
「遅いじゃないの! 一体どこをうろついていたの!?」
 怒鳴りつけられて、視線を転じる。そこで、また次郎五郎は目を疑った。
 広場の中央に、大きな天幕が設えられている。その中にいたのは、長老スタンと、ヘレナ。
 いや、そこまでは予想もついていた。
 驚いたのは、ヘレナが身に着けているのが、純白の清楚なドレスだったことだ。昨日までは背中に流しっぱなしだった長い髪も、凝った編みこみがされていて、白い花で飾られている。
「何よ?」
 苛立ったように問いかけられて、思わず次郎五郎が答える。
「いや……、見違えたなぁ、と思って」
 言葉の途中で、ぐるりと周囲を見回したのが効いたのか、これ以上はヘレナの逆鱗に触れなかったようだ。彼女は溜息をついて、豪華な椅子に腰をかけた。
「みんながやたらと張り切ってしまったのよ。わたくしとしては、もう少し自然に彼を迎えたいと思っていたのだけど。……座って」
 隣の椅子を示す。
「いや、俺は……」
「座りなさい」
 一言づつ、噛みしめるように命じられ、おとなしく従う。本能的に、逆らっていい相手と悪い相手を判別できるのかもしれない。
 ヘレナの向こう側には、やはり落ち着かない様子のスタンがいた。こちらはめかしこんではいないが、昨日まで手にしていた杖が周囲に見当たらない。
「ヘレナ、やはり儂は自宅へ戻っていようと思うのだが……」
「もう、おじさままでそんなことをおっしゃらないで。これだけ、民が彼を歓迎しているのだから、わたくしたちには応える義務がありますわ」
 俺には義務はないはずだけどなぁ。
 ぼんやりとそう思うが、勿論口には出さない。代わりに、それとなく尋ねてみる。
「まだ時間に余裕はあるでしょう。夕方には絶対戻ってくるから、ちょっと抜けさせてもらえませんか?」
「駄目よ。いつ戻ってくるか判らないんだから、早めにスタンバイしておくにこしたことはないの」
 彼女は、支配者の−−多くの人々に見られることに慣れた血筋の者だった。間違いなく。
 溜息をついて、テーブルの上の果物に手を伸ばす。住民から差し入れられたらしいワインや菓子なども、そこにはあった。
 この二日で、街は大方回った。それでなくても、次郎五郎は注目の的だ。彼が何を質問していたか、今や街中に広がっている。聞きこみを中断しても、さほどの遅延にはならないだろう。……多分。
 何とか自分を納得させたが、ふと、まだ尋ねていない相手がいることに気づいた。
「ヘレナ様」
「何?」
 何気なく視線を向けたヘレナは、少年の真摯な瞳にたじろいだ。
「一昨日、俺たちのことを貴方は確かこう言いましたね。『凶つ星に連なる者』……。その、『凶つ星』と称されるものがいまどこにいるか、貴方は知っているのではないですか?」
 『凶つ星』がどこにいるか。
 この少年は、それが誰だとは問わなかった。
 知らず、小さく喉を鳴らす。
 この兄弟自体が凶悪な者であるとは、既に彼女も思ってはいなかった。だが、周囲の状況や人物によって、それはたやすく変化するだろう。
 彼女は、自分の判断に絶対の自信を持っていた。弓士の長として、そしてエルフの血を引く者として、彼女は争いの兆候に敏感だ。
 彼らは〈戦士〉だ。戦士の長も彼らに会っている。
 だが、戦士の嗜好からして、彼らに纏わりつく『凶兆』を、長はそれほど重大なことだとは思わなかったのだろう。
 しかし、彼女は違う。
 彼らと、『凶つ星』とを会わせてはならない。
「……わたくしには、そこまでは判らないわ」
 答えた声は、掠れてはいなかっただろうか。
 この判断は正しいはずだ。
 落胆の色を浮かべる少年に、僅かに胸が痛んだとしても。

 夕陽が、徐々に地平線へと近づいていく。
 苛々とヘレナは天幕の中を歩き回っていた。
「遅いじゃないの……! もうすぐ陽が落ちてしまうわ」
「いや、まだ三十分から一時間はありますよ」
 のんびりと次郎五郎が言うのを、鋭く睨みつける。
「それに、まあ少しは遅れるかもしれないし」
「何ですって!?」
 少年が続けた言葉に、思わず問い返す。しれっと、次郎五郎はそれを見返した。
「九十朗一人なら大丈夫だろうけど、アレックスを連れていたんじゃ、到底二日では帰ってこられませんよ。当たり前でしょう?」
「あ……貴方ねぇ……」
 怒りに、ヘレナは真っ赤になっている。
「日没までに戻ってこなかったら、煮るなり焼くなり好きにしていいって言っておきながら、何なのよ!」
「間違えないでください。日没までに戻ってこなかったら、という条件が満たされなければ、俺たちは貴方の判断に従う、というだけです。煮るなり焼くなり、はその前に言った、九十朗が必ず戻ってくる、という条件ですよ。あいつが戻って来さえすれば、俺は煮られたり焼かれたりはされません」
 二日あれば、この街での目的もある程度は達成される。本当に永久追放されるのは痛いが、何とかなるだろうという判断だったのだ。
「詭弁じゃないの! よくもまあ、ぬけぬけと……!」
 更に頭に血が昇っているヘレナの横から、くすくすと笑い声が漏れた。
「一本取られたな、ヘレナ」
「おじさま!」
 却って緊張がほぐれたのか、スタンはまだ笑い続けている。
 天幕の中で揉めているということが周囲に判らない訳はなく、住民たちはざわざわと騒いでいる。
 ……いや。
「戻ってきたぞー!」
 ざわめきに混じって、遠く、誰かの怒鳴り声が聞こえた。……彼らの背後から。
「東?」
 驚いて、次郎五郎が立ち上がる。
 ヘネシスを出て、カニングシティに行くには西門から続く街道を使う。東門から延びる街道はエリニアへ向かっており、カニングシティに着くまでは倍ぐらいの距離があるだろう。
 だから、彼らが西門に集っていたのは至極当然だったのだが。
「違うわ……。まさか、東北の門から……?」
「東北?」
 そんな方向に、街道があっただろうか。
「この大陸の中央には、未知なる密林・スリーピーウッドがある。ヘネシスとペリオン、カニングシティからそこへ通じる道があるのだ」
 顔色をやや青ざめさせて、スタンが説明する。
「確かにその道を辿れば、距離的には半分近く短くなる。だが、道と言っても獣道も同然。しかも、出没するモンスターはこの近辺とは比べ物にならないほど強い。そんなところを通るなど、尋常ではない」
「アレックス!」
 叫んで、ヘレナが走り出した。東北の門へ向かって。
 が、広場の端へ辿り着きもしないうちに、人影が走りこんでくる。
「うわ!?」
 驚いたように立ち止まったのは、埃にまみれた九十朗だった。
「アレックスは? アレックスは、無事なの!?」
 その胸に縋りつくように、ヘレナが尋ねる。
「ああ、無事だけど……」
 しかし、彼の他に同伴者は見られない。
「まさか、どこかで置き去りにしてきたの?」
「いやあの……」
「落ち着きなさい、ヘレナ」
 スタンが、そっとヘレナの手を取った。もの問いたげに、九十朗を見る。
「ええと、あの、アレックスは連れて帰れなかった。すいません!」
 勢いよく頭を下げる九十朗に、落胆の声が上がる。
 放心した表情で、ぺたん、とヘレナが地面にへたりこんだ。ドレスが汚れるのにも気づいていない。
「でも、二人に手紙を預かってきたんだ。読んで欲しいって。もう少し自分が強くなったら、必ず戻るから待ってて欲しいって言ってた」
 腰袋の中を探って、一通の手紙をスタンとヘレナに渡す。
 もどかしそうに封印を破り、ヘレナはそれを読み始めた。直後に、その目に涙が浮かぶ。背後から覗いているスタンの瞳も潤んできていた。
 状況を察したのか、住民の中からも歓声が漏れ始める。
「……お疲れ、九十朗」
 次郎五郎が近づく。へへ、と笑って、弟は拳を突き出した。
 がつん、と互いのそれを触れ合わせる。
「なあ次郎、俺腹減った」
「向こうに山ほど食べるものはあるぞ。邪魔が入らないうちに食いに行こう」
 兄弟は、集う人々を掻き分けて、今や人の少なくなった天幕の方へ歩いていった。
「にしても、スリーピーウッドを通る道なんて、お前よく知ってたな」
「ああ、アレックスが教えてくれたんだ。時間がないからって言ったら」
「……お前、まだあいつの言うこと信用してたのか……」
 太陽は、最後の残滓を残して沈んでいくところだった。



 翌朝早く、兄弟は城門の前に立っていた。
 旅装を整え、今にも出発できる状態である。
 スタンがにやりと笑いながら、片手を差し出してきた。
「余計なことをしてくれた、と思わないではないが、礼を言うよ。ありがとう」
 だが、その姿は数日前よりも明らかに若やいでいる。
 苦笑して、次郎五郎がそれを握る。
「こちらこそ、お世話になりました」
「ありがとうございましたっ!」
 九十朗も手を握って応える。
「あまり厄介ごとに関わらないように、忠告しておきますわ」
 皮肉げに、ヘレナが言う。
「今回の一番の厄介ごとは、貴方に捕まったことですね」
「生意気言わないで。まだ貴方がたが凶兆を背負っていることには違いないのだから。……しかも、あんな場所へ向かうのだし」
 ふと、心配そうな表情が混じる。
 ちょっと真面目な顔になって、兄弟は頭を下げた。

 城門が、開く。

2005/06/16 マキッシュ