Here We Go!!
エリニア

 目が覚めて、数分間は事態が飲みこめなかった。
 ゆっくりと周囲を見渡す。それから、今まで寝ていた地面と、頭上の空も。
「……………九十朗」
 ざわり、と背筋に嫌な気配を感じて、知らず九十朗は後じさった。
「ええと、お早う、次郎」
 強張った顔の筋肉を何とか笑みの形にするが、兄はゆっくりと伸ばした両手で弟の肩を摑んだ。
「ここは、一体、どこだ?」
 九十朗は、忙しく視線を四方へ向けるが、逃げ出せるような隙は見当たらない。それどころか、兄の怒気は一秒ごとに増していくようだ。
 ごまかすような笑みを浮かべて、九十朗は告げた。
「……エリニア」

「一体何だってこんなところにいるんだ!」
 次いで響いた怒声は、周囲の森からあらゆる鳥を飛び立たせた。


 エリニア。
 それは神秘の森。人ならざる人の棲む森。
 天までそびえるかのような、太古の木々の間を進む。大地には我が物顔に木の根が張り巡らされ、その上には柔らかな苔がびっしりと生えている。
 歩きにくいこと、この上ない。
「悪かったって、次郎」
 何度目かの謝罪に、しかし次郎五郎は振り返らない。
 相手に聞こえないように、九十朗は小さく溜息をついた。
 九十朗は、以前から何度もエリニアへ行ってみたい、と兄に頼んでいたのだ。が、何故か次郎五郎はそれをはねのけ続けた。
 大陸にある都市は、殆ど回った。残りはエリニアだけだ。何故、兄がいい顔をしないのか、九十朗には判らなかった。
 そこで九十朗は、昨夜、兄が寝入った後で彼を背負い、こっそりとエリニアへと入っていったのだ。
 前日、かなりハードな戦闘を経験していた次郎五郎はぐっすりと眠っており、彼の作戦は上手くいったかに見えた。
 目が覚めた途端に、怒られた訳だが。
 ……実際、何故ここまで兄が怒っているのか、九十朗にはぴんとこない。
 実際、殴られこそしなかったが、それは兄が必死に自制したからなのだ。
 やや先行して歩いていた次郎五郎が足を止め、小さく舌打ちした。
「だから、悪かったってば……」
 軽く手を伸ばされて、言葉を押しとどめられる。
「そうじゃない。……お前には、判らないか?」
 小声で囁かれるのに、首を傾げる。
 油断のない目で周囲を探っていた次郎五郎が、弟の肩を摑んだ。
「退がれ……っ!」
 反射的に、数メートル後退する。
 あっけないほど軽い音と共に、白い糸で編まれた網が、彼らの身体を掠めて地面に落ちた。
 頭上から垂れ下がってきている部分を辿ると、人の頭ほどもありそうな大きさの蜘蛛が無念そうに足を蠢かしている。
 ぞっとした九十朗の耳に、微かに声が聞こえた。

 −−いやぁね、失敗しちゃったじゃない。
 −−次は上手くやってみせるわよ。
 −−ちょっと、次はわたしの番でしょ?

 不安そうな九十朗に一つ頷くと、次郎五郎は手近な蔦を手にした。素早く、上へと登っていく。
 そして、間もなく。
「きゃぁっ!?」
 鈍い音と、短い悲鳴が聞こえた。

 樹の上に潜んでいたのは、一人の小柄な少女だった。鮮やかな金髪が、豊かに背中の中ほどまで流れている。
 彼女は、いきなり目の前に現れた次郎五郎を、呆気にとられたような顔で見上げていた。
 視線を向けずに、周囲を探る。木々の間に、似たような気配があと四つはある。
 僅かに眉を寄せて、次郎五郎は少女の肩を摑んだ。そのまま、背後の幹に押しつける。
 大きな目を更に見開いて、少女は短く悲鳴を上げた。
 すぅっ、と周囲の気配が消える。
 逃げたか、他の手勢を連れてくるのか。
「ななななな、何よ!? 何よ、一体何なのよっ!?」
 瞬間、耳を貫いた金切り声に、銀髪の少年は更に眉間の皺を深くした。
「そりゃ、こっちの台詞だ。一体何のつもりなんだ、お前ら?」
 がさ、と枝をかき分ける音がする。
「次郎?」
 兄の後を追ってきた九十朗が、目の前の光景に瞬く。
「次郎、何やって……」
「こいつが、先刻の蜘蛛をけしかけたんだよ」
 うんざりしたように答える次郎五郎に構わず、少女は叫んだ。
「どうして、人間なんかが私に触れるのよ!」

 きょとんとして、二人の少年は少女を見つめた。
 彼女の白い顔は更に青ざめていて、僅かに怯えているようにすら見えた。
「どうしてって……。そりゃ、触れるだろ」
「うん、触れてるんだしな」
 何となく間抜けな返事を返す兄弟。
「人間なんかが、妖精の私に触れる訳ないでしょ! 判ったらとっととその手を離しなさい、野蛮人!」
「いや矛盾してるしそれ」
 呆れた顔で九十朗が呟く。が、次郎五郎の顔は更に険悪になっていた。
「自分のこと棚に上げて、何を勝手なこと言ってやがるんだこの小娘! 道を歩いてるだけの善良な冒険者に、巨大蜘蛛なんぞけしかける方がよっぽど野蛮だろうが!」
「私たちの森を、人間の、しかも戦士風情が我が物顔で歩いていいと思ってんの!? 分を弁えなさいよ!」
 ぎり、と低い音が聞こえた。
 次郎五郎が、怒りに奥歯を噛み締めている。
 生まれてからずっと傍にいた九十朗でさえ見たことのないほどの怒り。
「じ……っ!」
 反射的に声を上げた九十朗が、言葉を飲みこんだ。
 彼らのすぐ近くの空間に、彼女がいた。
 淡い色合いの長い髪。大きな瞳はまだ年端もいかない少女のようだが、そのような印象を覆すほどの知性が伺えた。
 薄物を纏った身体の周囲の空気が、ちらちらと光を発している。
 つい先ほどまでは、絶対にそこには誰もいなかったのに。
「その娘を離して頂けませんか、お若い方」
 落ち着いた声音で、彼女は話しかけた。

 数秒、彼女を見つめた後、一つ溜息をついて次郎五郎は肩を押さえていた手を離した。
 小さく彼に会釈すると、少女は解放された金髪の娘の方を向いて、僅かに眉を顰めた。
「ここで何をしていたのですか、アルウェン」
「何って……、ご覧になっていたでしょう、マル様! この野蛮人たちが、私に乱暴しようとしたんです!」
「おま……っ!」
 自分のしたことを棚に上げて訴える少女に、再び次郎五郎が激昂しかける。
 が、マルと呼ばれた少女はぴしゃりと返した。
「私をごまかせるなんて思わないことですね、アルウェン」
 びくん、とアルウェンの肩が震える。やましげに視線を逸らせるのを確認して、マルは少年たちに向き直った。
「我が一族の者が、失礼を致しました」
 深く頭を下げてくるのに、次郎五郎が複雑な視線を送る。
 顔を上げて、何かに気づいたのか、マルが戸惑ったような表情を浮かべた。
「貴方は……、戦士、ですよね?」
「悪いが一応そうだ」
 吐き捨てるように返すと、銀髪の少年は身を翻した。身軽に地上へと飛び降りる。
「次郎?」
 慌てて、九十朗が枝から身を乗り出す。
 振り返りもせず、次郎五郎はその場を去っていった。

「次郎ってば! どこ行く気だよ!」
 マルへの挨拶もそこそこに、九十朗は兄を追った。
 先ほどの場所からかなり離れた辺りで、ようやく足を止める。
「エリニアから出るだけだ」
 ぶっきらぼうにそう告げられて、一瞬九十朗は言葉に詰まった。
「……何で、そこまでこの土地が嫌なんだ?」
「先刻の騒ぎを見て、お前は何とも思わなかったのか?」
 静かな声で訊き返される。だが正直なところ、実害は全くなかったし、先に兄がやたらと怒っていたので、それに気を取られていた九十朗は別にどうとも思っていなかったのだが。
「……ああ、お前には判らないか。お前は根っからの戦士なんだしな」
 無言の弟にそれを察したのか、次郎五郎は自嘲気味に呟いた。そして、踵を返して再び歩き始める。
「でも、次郎。あの人を探すのに、エリニアを除くって訳にもいかないだろ。ここは他の大陸へ船も出てるし」
 慌てて引きとめようと、更に声をかける。だが、今度は兄は立ち止まらなかった。
「じゃあ、お前が調べてくればいい。……いつまでも、二人で一緒にいることはないんだから」
「……次郎?」
 九十朗の目が見開かれる。
 生まれてからずっと、共に歩んできた兄が。
 どんな苦境に陥っても、支えあって生きてきた兄が。
 一度も振り返らずに、森の中へ姿を消そうとしている。
「次郎……」
 その背中が何よりも自分を拒絶しているように思えて、初めて九十朗は兄の後を追っていけなかった。




 夜が更けた。
 結局、次郎五郎はエリニアの森から抜けることができず、道から少し離れたところで野営していた。
 いくら九十朗の足が速いとは言え、自分を背負って夜の間進んだ程度の距離を、昼間だけで戻れない訳がない。おそらく、どこかで道を間違えたのだろう。
 しかし、街道を進んでいる限りは遠回りになってもどこかへ着くはずだ。そう悲観することもない。
 夕方になってから薪を拾い、少し地面を掘って火を熾す。二人ならばすぐに終わる作業が、一人では思った以上に時間がかかってしまった。
 炎を見つめながら、干し肉をかじる。一人だけではきちんとした食事を作る気分にもなれない。
 置いていってしまった弟はどうしているだろう。エリニアの街へ行き着いただろうか。温かい食べ物と、柔らかいベッドを得ているだろうか。
 自分の意思で弟と離れたくせに、もう、こうして気にしている。
 ……だが、エリニアにはどうしても来たくなかったのだ。
 この、魔法使いと精霊のみが居ることを許された土地には。
 一つ溜息をついて、地面に横になる。目を閉じても、目蓋の裏に焚火の灯りが感じられた。

 気配が近づいてくるのを感じて、抱えながら眠っていた剣の柄へ手を這わせる。
 足音は聞こえない。だが、確実にこちらに向かってやってくる。
 あと二十歩。……十五歩。……十歩。
 三歩にまで近づいた時に、次郎五郎は跳ね起きた。そのまま剣を鞘走らせ、切っ先を相手に突きつける。
「きゃああああああああっ!?」
 聞き覚えのある金切り声に、一瞬呆気に取られる。
 顔を青ざめさせ、目の前に立っているのは、昼間出会った金髪の妖精だった。
「……またあんたか……。今度は何の嫌がらせだ?」
 小さく溜息をつきながら尋ねる。
 と、彼女は気丈にこちらを睨みつけながら声を上げた。
「そ……、それはこちらの台詞よ! いきなり斬りかかるなんて、一体どういうつもりなの!」
「悪かったな。俺はあんたたちみたいに、この森に祝福されていないんでね」
 皮肉げに返したが、一応剣は収める。地面に改めて胡坐をかき、アルウェンを見上げた。
「で、何の用だって?」
「……一応、昼間のお詫びに来たのよ。はい、これ。とっておきの秘密の場所から取ってきたんだから」
 そう言いつつ、両手に抱えていた鮮やかな果物を差し出す。
 結局ろくに食事を摂っていなかった次郎五郎は、一瞬迷ったものの、ありがたくそれを貰うことにした。
 果物の瑞々しさに、少し気分が軽くなる。
 アルウェンは、次郎五郎から一人分ほど間を空けたところに座った。
「美味いな」
「あ、当ったり前じゃないの」
 褒められるとは思ってなかったのか、ちょっとうろたえたようだ。その様子が何となくおかしくて、小さく笑う。
「……なあ」
 小さく尋ねるのに、アルウェンは小首を傾げた。そちらへ視線を向けずに、言葉を継ぐ。
「九十朗……、弟がどうしたか、知ってるか?」
「ああ、昼間に一緒にいた子のこと? エリニアの街へ来てるわよ」
 あっさりと答えられたことにほっとして、肩の力を抜く。
「そうか。ならいい」
「やたら落ちこんでいたけどね。喧嘩別れしたの、後悔してるの?」
 次郎五郎の弱みを見つけたと思ったのか、ややにやにやしながら、アルウェンが尋ねる。銀髪の少年は、微かに苦笑した。
「兄弟だからって、行く道がずっと同じ訳じゃないさ。森の中で野宿するよりも、ちょっと気分が晴れなくたって街に泊まった方がずっといい」
「じゃあ、どうして貴方は街へ来なかったのよ」
 痛いところを突かれて、次郎五郎は一瞬言葉に詰まった。
 アルウェンが言葉を続ける。
「大体、貴方ってちょっと変わってるわよね。普通の人間は、私たち妖精に触ることなんてできないはずなのに。そんなことができるのは、かなり高位の魔法使いとか……」
「あんた」
 ざわり、と空気が変わったことに気づいて、アルウェンが身体を震わせた。目の据わった次郎五郎が、じっと少女を見詰めている。
「いつまでここにいるつもりだったんだ?」
 その、悪意すら混じった言葉に、アルウェンが立ち上がった。
「何よ、その言い方! 帰ればいいんでしょ、帰れば! 私だって、別に貴方とずっといたいなんて……」
「静かにしろ」
 低い声に、アルウェンは押し黙った。次郎五郎の視線は、アルウェンを通り越して、森の中の闇を見据えている。
 ゆっくりと、妖精の少女は背後を振り返った。森の気配が、ざわざわと波うっている。
「な……なに?」
 掠れた声で呟く。次郎五郎が、緩やかな動きで剣を手に取った。
「あんたの住んでる森だろ。心当たりはあるんじゃないか?」
「妖精の私が一緒にいて、襲ってくるモンスターなんて、エリニアにはいないわよ。いるとしたら……」
「いるとしたら?」
 はっ、と少女が言葉を切る。静かに、次郎五郎が先を促した。鞘鳴りを抑えるために、ゆっくりと剣を抜く。
 アルウェンが、自分の震える肩を両手で抱きしめた。
「ゾンビルーパン……」
 樹の下にうずくまる闇の中に、白く光る瞳が幾つも蠢いていた。


 流れるような動きで、次郎五郎は立ち上がった。相手を刺激しないようにゆっくりと、アルウェンの前へ回りこむ。
「エリニアの街へ逃げこめば大丈夫か?」
「え……ええ、多分。あいつらでも、街の守護魔法まで突破することはできないもの。でも、人間の足じゃあいつらからは逃げられないわ」
「俺がいつ、あんたと一緒に逃げるなんて言った?」
 さらりと返された言葉に、アルウェンが息を呑む。
「無茶よ! ゾンビルーパンは簡単に倒せるような相手じゃないわ! 冒険者だって、かなりの実力がなければ苦戦するんだから……」
「二人で逃げられないなら、一人が逃げるべきだろ。未熟な俺でも、時間稼ぎぐらいはできる」
 淡々と告げられる言葉に、反射的に言い返そうとする。が、次郎五郎はそれを制した。
「いいから逃げろ。逃げて、その気があったら救けを呼んでくれ」
 アルウェンが小さく下唇をかむ。確かに、それしか手段はないのだろう。
「……大急ぎで戻ってくるから、やられるんじゃないわよ」
 震える声でそう呟くと、ふっとその姿がかき消えた。やや離れた樹の枝が、突然音を立てて揺れる。
 次郎五郎はゾンビルーパンへと向き直った。視界の隅に、僅かな薪の山が映る。
 名前の通りにアンデッドであるならば、焚火が少しはこちらに有利に働くだろう。だが、これだけの薪しかなくてどれほど保つかは別問題だった。
 とりあえず、夜明けまで保たないことだけは確かだ。
「どうしたよ、この腐れ猿が? そうやって暗いところに座りこんで、仲間の後ろに隠れてたら見逃して貰えるとでも思ってるのか?」
 次郎五郎の挑発に、ゾンビルーパンはキィキィと怒りの声を上げた。
 頭に血を昇らせて、ばらばらに突っこんでくるのなら、各個撃破すればいい。一丸となってやってこられるよりも勝機はある。
 できる限り嘲笑うような表情で、彼は罵倒を続けた。


 胸騒ぎがして、目が覚めた。
 冷たい月の光が、隣のベッドを照らし出している。その皺一つないシーツが、殊更一人であることを九十朗へ思い知らせた。
 窓の外から、ざわめきが起きた。不審に思って、窓を押し開ける。
 街の入り口の方に、人が集まっているようだ。
「……が出たの! 人間の戦士が、一人で残ってるのよ! お願い、救けに行って!!」
 その声に聞き覚えがあって、九十朗は剣を片手に掴むと裸足のまま窓から飛び降りた。
 だん、と街を構成する巨大な枝の上に着地する。僅かに揺れを感じたが、構わず少年は駆け出した。
 何人もの魔法使いが、慌しく動き回るのをかき分ける。
 力なく地面に座っているのは、昼間に会った金髪の妖精だった。
 が、頬やむき出しの腕には何箇所も擦り傷や土汚れが認められる。明らかに疲労していたが、心配そうに周囲を見つめる瞳からは力は失われていない。
 目の前に立った九十朗に気づいて、彼女は一瞬怯んだ。
「貴方……」
「何があったんだ?」
「森に……、ゾンビルーパンが出たの。だから、人手を集めてそれを退治しに行くのよ」
 目を逸らして、そう説明する。
「ゾンビルーパン?」
 聞き覚えのない言葉を、九十朗が繰り返す。
 それに対する答えは、背後から返ってきた。
「それは、魔法で生み出されたモンスター……。生みの親である魔法使いたちを呪い、封じられたこの森を呪い、世界の全てを呪うものたち」
 まるで歌うようにそう告げたのは、もう一人の妖精だった。
「マル様……」
 ほっとしたように、アルウェンが名前を呼ぶ。
「待機中の魔法使いたちに出動を要請しました。滞在している冒険者たちも協力してくれます。何も心配することはありませんよ、二人とも」
「二人……?」
 マルの言葉に、明らかに自分に対する気遣いを感じて、九十朗が眉を寄せる。
 今、自分が心配すべき相手は、数少ない。
「次郎が、そこにいるのか!?」
 鋭く、九十朗はアルウェンに詰め寄った。
 びくん、と身体を震わせる少女にそれ以上は訊かず、少年は開かれたままの門扉を走り抜けた。
「お待ちなさい! 貴方では危険です!」
 マルが制止するが、彼は聞いていなかった。
 すっ、とアルウェンが立ち上がる。
「アルウェン、まさか貴方……」
「あの人間の戦士に、必ず戻ってくると約束したんです。それに彼の弟だって、場所を教えなくては迷ってしまいますわ」
 ふっ、とその姿が消える。
 一瞬で森の中へ移動したアルウェンは、走って行く少年の気配を探した。
 妖精である彼女は、エリニアの森の中に限り、馴染み深い木々を目印に空間を渡っていくことができる。尤も、あまり長距離は無理なのだが。
 何度かそうやって移動して、彼女はようやく九十朗を見つけた。
「そっちじゃないわ、右よ」
 疲労に息を荒げて、彼女は声をかけた。
「先刻の……」
「急ぐわよ。指示するから、ついてきて」
 九十朗が頷くのを確認して、彼女は次の樹へと跳んだ。


 斬り払う。薙ぐ。突く。横合いから来た身体を、片足を上げて蹴り飛ばす。
 思った以上に、次郎五郎は苦戦していた。
 ゾンビルーパンがアンデッドなのであれば、相手は致命傷を負ったぐらいでは戦闘不能にならない。確実に首を落とすぐらいの覚悟で臨むつもりだった。
 が、やたらと厚い毛皮に邪魔をされ、彼の剣は渾身の力を篭めても掠り傷を負わせるのがせいぜいといったところであった。
 長い鉤爪が目の前に迫り、咄嗟に少年は身体を逸らせた。
 僅かに頬を掠めてつけられた傷が、瞬時に燃え上がるような痛みを発する。
 小さく舌打ちして、次郎五郎は力任せに敵の身体へ剣を叩きつけた。衝撃で樹の幹にぶつかったところを、更に脇から斬りつける。それでもなお緩慢に顔を上げる相手に、怖気が走った。
 そこへもう一体が飛び掛ってきた。手にした長剣は、樹にめりこんですぐには引き抜けない。
 剣から手を離し、身を翻して焚火の傍へ駆け寄る。かなり太い薪を引き抜き、それで力いっぱい殴りつけた。嫌な臭いがして毛皮が焦げるのに、相手は甲高い悲鳴を上げて逃げ出す。
 流石に息が上がっている。
 弟だったら、勝てただろうか。
 純粋に戦士としての素質を持っている、弟であれば。
 それとも。……もしも、自分が魔法使いになることを選んでいたなら、倒せたのだろうか。
 戦士としては中途半端で、しかし今更魔法使いを目指せる訳ではない。
 この自分の資質を、この土地はいつにも増して見せつけてくる。
 一つ頭を振って、余計な思考を振り払う。
 次郎五郎は、樹に食いこんだままの剣を抜こうとして振り返った。
 その瞬間、頭上にじっと潜んでいたゾンビルーパンが飛びかかってきた!
 枝が揺れる音に気づいた次郎五郎は、反射的に大地を蹴って逃れようとするが、ゾンビルーパンの鉤爪が、彼の脇腹を深く抉った。
「……っがぁあああああああああああっ!」
 視界が瞬時に赤く染まり、そこここに鋭い光が奔る。
 ぼたぼたと音を立てて、深紅の血液が大量に地面に落ちた。
 激痛に、地面に倒れそうになる。腹をかばって回した腕が、生暖かい液体でぬめる。
 ……剣を。
 すぐそこにある剣を持てさえすれば、生き延びられるのに。
 血にまみれた手が、力なく伸ばされて、そして。
 軽い音を立てて、地面に落ちた。

 森の中の地面は苔に覆われていたが、それでも裸足で走っていて全く無傷というわけにはいかない。
 だが、九十朗はそんなことに全く意識を向けなかった。
 ……自分のせいだ。
 彼の頭にあるのは、後悔の念だけだった。
 自分が意地を張って、兄を追いかけなかったから。
 たとえどんな危機に陥ったとしても、二人ならきっと何とかなったはずだ。
 アルウェンの指示に従い、全速力で森を駆ける。
 静謐な空気が、突然苦痛に満ちた叫びで引き裂かれた。
「……次郎!」
 九十朗が、悲鳴に似た声で怒鳴った。
「もう少し……、その岩の向こう側!」
 アルウェンの言葉に、更に加速する。目の前の大きな岩を回りこむと、そこには小さな焚火に照らされて、数体の奇妙な猿がいた。
 そしてその前には、一人の少年が倒れている。
 彼の身体を縁取るように、赤い液体が溢れていた。
 青ざめたその顔を認めて、怒声と共に九十朗は大剣を抜き放った。
「……そこを退きやがれ、てめぇらぁああああっ!!」
 いきなりの乱入者に、ゾンビルーパンが警戒の叫びを上げる。
 遅れて到着したアルウェンが、次郎五郎に向かって走った。汚れることなど頭にないのか、血溜りに膝をついて顔をよせる。
「嘘……、ねぇ、大丈夫でしょう? 目を開けてよ、ねぇ……」
 震える指で頬に触れる。
 僅かに、次郎五郎の目蓋が開いた。
「……何で……、戻ってきた……?」
 意識がはっきりしていないのだろう、途切れ途切れに言葉を発する。
「救けに来たに決まってるでしょ。弟さんだって一緒に……」
「九十朗……?」
 泣き笑いのような顔で、アルウェンが告げる。不思議そうに視線をさまよわせた次郎五郎が、ずるり、と腕を動かした。
「無理しないで」
「剣を……俺の」
 次郎五郎の視線をたどると、樹に刺さった長剣があった。
 妖精というものは、金属に、特に鋼に対して生理的嫌悪感を持っている。恐怖感、と言い換えてもいいかもしれない。
 それを考えると、アルウェンの行動は実に勇敢だったといえる。彼女は躊躇うことなく剣を引き抜くと、次郎五郎の横たわる場所まで持ってきたのだ。
 剣を手に握った次郎五郎は、ゆっくりと身体を起こした。
「ちょっと……! 無茶よ、起き上がるなんて! すぐに応援がくるから動かないで」
「……弟を護るのは、兄の役目だし、女を護るのは、男の役目だ。俺が、ここで倒れていられるわけがないだろう?」
 血がこびりついて引きつる口元を、僅かに笑みの形に歪める。
 実際、すぐにも膝が崩れそうだ。心臓の鼓動に合わせて、傷口から脳天へ激痛が走る。
 だが、どれほど不甲斐ない、出来損ないの戦士であったとしても。
 自分が護るべき相手が、ここにいるのだ。
 頭に血が昇っている九十朗が、勢い余ってバランスを崩した。それに向かって、一体のゾンビルーパンが飛びかかる。
 次郎五郎が、殆ど倒れこむように一歩進み、敵の身体へ剣を食いこませる。
 瞬間。
 剣が白熱した光を放ち、彼らを包みこんだ。
「……次郎……っ!」
 九十朗が、悲痛な叫びを上げる。
 光が薄れた時には、ゾンビルーパンは事切れていた。
 ゆっくりと、次郎五郎がその場に崩れ落ちる。
「次郎!」
 一瞬で跳ね起きると、九十朗は次郎五郎に駆け寄った。次郎五郎は剣を杖のようについて、何とか膝から上を支えている。
「怪我……ないか、九十朗……」
 その言葉に、弟は無言で首を振った。
 兄が、薄く笑みを浮かべる。
 新たな敵が、森の闇の中から飛び出してきた。
「慈悲深き神の御手よ……」
 背後から静かな詠唱が聞こえ、ゾンビルーパンが緑色の光に包まれる。
 断末魔の声を響かせ、次々と冥き生命は活動を終えていく。
 呆然とする次郎五郎の傍らに、一人の魔法使いが近づいた。
 手を翳し、癒しの呪文を口にする。
 傷口がゆっくりと塞がり、痛みが徐々に引いていった。
「……無茶をされる」
 呆れたようにその魔法使い−−クレリックは呟いた。
「森の中に隠れている、残りのゾンビルーパンは、他の者たちが狩り出しています。……よく戦い抜かれましたね、三人とも」
 マルが、森の中から静かに姿を現した。九十朗とアルウェンを見る視線は、何故かやや険があったが。
 ……助かったのか。
 そう思った途端、次郎五郎の意識は急激に闇へと落ちていった。



 目覚めると、部屋の中には太陽の光が満ちていた。
 ぼんやりと天井を見つめていたが、ゆっくりと視線を横へ向ける。
 隣のベッドに座って、じっとこちらを見つめていた九十朗と目が合った。
「……よぅ」
 小さく声をかけると、ようやく弟は緊張を解いた。真っ赤になった目を潤ませる。
「ごめんな、次郎……」
「お前は何も悪くないだろ」
 突然の謝罪に、戸惑って返す。
 が、九十朗は首を振って続けた。
「俺、もう二度と我侭言ったりしない。だから……、一人になったりしないでくれ」
 僅かに、胸が痛む。……弟は、二度も置き去りにされるところだったのだ。
「守れない約束はしないことだな」
 わざと軽口を叩くと、やっと弟は小さく笑った。
「食事、頼んでくる。腹減っただろ」
 軽い足音が、廊下を遠ざかる。
 次郎五郎は、ゆっくりと腕を持ち上げた。それだけでも酷く疲労を感じる。
 昨夜の、あの感覚。
 自分の身体の奥から、不思議な力が剣へと注がれていった。
 それまで殆ど傷も負わせられなかったゾンビルーパンが、一撃で倒せてしまうほどの。
 あの時の自分には、どう考えてもそんな体力は残っていなかったのに。
 頭を巡らせて、部屋の中を見回す。自分の剣は、足元の壁に立てかけてあった。
 上体を起こしたところで、頭から血の気が引いた。目の前が暗くなるのに、昨夜の記憶が蘇ってぞくりとする。
「無理して起きない方がいいわよ」
 ぶっきらぼうな言葉がかけられる。何とか持ちこたえて、視線を向ける。
 開け放たれた窓の外から、見覚えのある妖精が座っていた。顔を外へ向けたままで、こちらと目を合わそうとしない。
「あんたか。……怪我はなかったか?」
「大丈夫よ。おかげさまで。……貴方には、クレリックがヒールをかけてくれたから、傷はもう塞がってるわ。だけど、失った血液が回復するまでは何日かかかるみたいだから」
 なるほど、貧血か。
 納得して、次郎五郎はおとなしく枕へ頭を戻した。
「……なあ。昨日、俺がゾンビルーパンを倒したところ、あんた見てたか?」
「見てたけど」
「どう思った?」
 単刀直入に尋ねる。言葉を飾っても、仕方がない。そもそも、説明しようにも自分にも判っていないのだから。
「私は戦士のことを良く知らないから、判らないけど。昨日のクレリックは、あれをホーリーアローだと思ったみたい」
「ホーリーアロー?」
「クレリックの使う魔術よ。聖なる力の流れを汲むもの」
「ああ。……つまり、あれは俺が倒したんじゃないのか」
 苦笑して、呟く。おそらく駆けつけてくれたクレリックが救けてくれたのだろう。
 すると、苛立たしげにアルウェンは顔をこちらへ向けた。
「違うわよ。あそこへ一番に来たクレリックは、その後にヒールでゾンビルーパンは倒したけど、その前にホーリーアローなんて使ってないって言ってたわ」
 僅かに眉を寄せて、次郎五郎は小首を傾げた。
「どういうことだ?」
「だから判らないって言ってるじゃない」
 きつい視線で睨みつけてくる。
 困惑して、次郎五郎は彼女を見上げた。
 何故か、怒ったその顔が、今にも泣き出しそうにも見える。
 十数秒の沈黙の後、ふとアルウェンが扉の方を見た。
「やだ、貴方の弟ったら、山盛りの肉を持って来たみたい」
「人間が血液を回復しようとするには必要なんだよ」
 苦笑して、そう説明する。
「肉を焼く匂いって、嫌いなの。行くわね。……ああ、そうだ」
 身体を浮かそうとして、思い出したように動きを止める。
「マル様から伝言があったんだわ。ハインズ様経由で、戦士の長老に連絡をしておくって。二人とも、そろそろ冒険者として次の段階に進んでもいい頃だから、長老とじっくりと相談しなさいって言ってたわ」
「判った。ありがとう」
「お待たせ、次郎!」
 扉を開けて、九十朗が姿を見せる。その手に乗せられたトレイの上に山盛りになっている肉料理を見て、流石に次郎五郎も怯んだ。
「……昨日貰った果物が恋しいくらいだ」
 弟に聞こえないように呟いた言葉に、アルウェンは小さな声で笑った。

2005/08/10 マキッシュ