一番最初の記憶は、冷たい石畳と潮の匂いだった。
物心つく頃、傍にいたのはまだよちよちと歩く子供と、薄汚れた男だった。
男は、父親ではない。血縁ですらなかった。
ただ、それなりの年齢の男が働きもせずに物乞いをしているよりは、幼い子供を二人も抱えてやむをえず物乞いをしている方がまだ説得力があったのだろう。
他には何も知らなかった。
ただ、朝から夜まで石畳の上にうずくまり、通りを行く人々に声をかけていた。
泣き出しそうな声は、特に演技をするまでもない。
子供は実際によく泣いていた。
稼ぎが少ないときや、男が苛立った時にはよく殴られた。
その時、自分が子供を庇っていたことを覚えている。
男が酒に酔って、機嫌が良い時に言っていたことが頭にあったからだろうか。
−−ちび。弟をちゃんと守ってやれよ。
−−世界で二人だけの兄弟なんだから。
何も知らなかった。
ただ、流されるように生きていることだけしかしていなかったから。
それすらも、おそらくは幸福だったのだ。
ある日突然、男は姿を消した。
今ならば、幾らか理由は推測できる。
酒場で喧嘩でも起こして、後腐れなく海へ投げこまれたか。何らかの罪状で警吏に捕まって罰せられたか。
ありとあらゆる可能性がそれなりに説得力を持つ。
しかし、ほんの子供でしかない二人は途方に暮れた。
見様見真似で物乞いもしてみたが、それは同業の大人たちに悉く邪魔をされた。
そうしてやっと、自分たちを連れていた男がそれなりに世話を焼いてくれていたことを知る。
物乞いに最適な場所を占め続けることも。
満腹、とまではいかないが、ひどく飢えない程度に食事を与えられていたことも。
雨に濡れず、風も防げる場所で眠ることができていたことも。
手加減なしに暴力を振るわれ、ぼろ屑のように路地裏にうち捨てられて、やっと理解できた。
背中を丸め、うずくまった身体の下に、小さな子供の身体がある。
恐怖と苦痛に泣き、泣き疲れて今は眠ってしまっていた。
目蓋が腫れ、視界が狭い。口の中が切れたらしく、彼は身を起こして血の混じった唾を吐いた。
暗がりの中で、子供の身体を注意深く見る。いくつか痣ができてしまったが、さほど大きな怪我はしていないようだ。
「……ちび」
ぎゅう、ともう一度身体を抱きしめた。その温かさに、救われた気持ちになる。
日が沈んで、何時間になるのか。これで何日、ろくにものを食べていないのか判らない。
とにかく、子供を安全な場所に寝かせてやらないと。
兄とはいえ、さほど身体が大きいわけではないし、体力も限界に来ている。子供を背負い、よろよろと路地を進むのが精一杯だ。
そのうち、前方に大きな影が見えた。
一人の男が、ごろりと横になっていた。
用心深く様子を伺うが、どうやら酔って眠ってしまったらしい。
ここは、港町サウスペリ。
各地から船乗りが集まる土地だった。
長い航海のあと、街に上陸するとなると、羽目を外す人間は多い。この男も、おそらくはそのような一人だろう。
じっと、男を見つめる。
そして、子供をそっと壁際に横たわらせた。
ゆっくりと、男に近づいていく。
力強く揺さぶられて、子供は薄く眼を開いた。
「……なに……」
身体がずきずきと疼いて、また泣き出しそうになる。が、銀色の髪の子供は真面目な顔で囁いた。
「たて。……はしるぞ」
頷いて、ぐい、と目を擦る。先に走り出す兄の後を懸命に追った。
兄の手の中には、酔い潰れた男の懐から抜き取った小さな革袋が握られていた。
用心さえすれば、それは簡単なことだった。
相手が一人で、充分に酔っているということ。それを見極めればいいのだ。
時折、気づかれて追いかけられることもあったが、相手は船乗りだ。幼くとも既に街をよく知っていた兄弟は充分にそれを撒けた。
ある夜明け前のことだった。
その日も何とか金を手に入れることができて、ほっとして夜の路地を歩いていたとき。
道を塞ぐように、二人の男が立っていた。
嫌な予感に、足を止める。
「ちびのくせに、最近結構稼いでるらしいじゃないか?」
不吉な期待を籠めて放たれた声に、本能的に二人は踵を返して走り出した。
「……っ!」
しかし相手は酔っているわけではない。すぐに追いつかれ、足を払われる。
「ち……!」
先行していた弟が、それに気づいて戻ろうとする。
「逃げろ、ちび!」
兄が叫んだ言葉に、すぐに従う。もう一人の男がそれを追いかけていくのを、為す術もなく見送った。
ゆっくりと近づいてきた男が、容赦なく腹に蹴りを入れた。この時間では胃に殆ど何も残っていない。ただ胃液だけが喉を灼いた。
蹲り、えづく子供の横に男がしゃがみこんだ。手が形ばかり背を撫でてきて、それすらも温かいと感じて子供の目に涙が浮かぶ。
「……な。もう、痛い目にはあいたくねぇだろ? 稼いだ分、全部出せよ」
握られた掌の中にある革袋を奪う気であれば、簡単に奪えたはずだ。
それを、男は自分の意思で出させることにこだわった。
手から力が抜ける。ちゃり、と小さく硬貨が鳴った。
命を繋ぐはずだった、硬貨が。
石畳の上に落ちた革袋を、満足そうな顔で男は拾った。
その後はこちらを一瞥もせず、ふらりと路地を進んでいく。遠くで、もう一人の男との会話が聞こえた。
「小さい方はどうした?」
「逃げられた。……そっちは?」
痛みが和らぐまで、動かない。やがてそろそろと歩き出したのは、もう陽が昇ろうとする頃だった。
幾つかの路地を過ぎた頃、建物の隙間から騒がしい音がした。
小さな子供が勢いよく飛びついてくる。
改めて痛みが呼び起こされたが、小さく呻く程度に抑える。
「……大丈夫だったか? どこも痛くないか?」
弟は頷くが、ぼろぼろと涙を零している。
「ごめんな。今日は、何も食べられそうにないんだ。腹、減ったよな。……ごめんな」
ずるずると壁によりかかり、座りこむ。痛みと疲れが眠気を誘う。弟の身体を抱きしめて、目を閉じた。
「……何とか、しないとな……」
二日後に、獲物から小さなナイフを手に入れて、それで少しは状況がよくなった。
勿論、まだ幼い子供二人、ナイフがあったぐらいで大の大人に勝てるわけではない。基本的に以前よりも警戒心を持ち、危険を察知するとただひたすら逃げるだけだ。
だが、捕まりそうになった時に、素手か小さな爪があるかで生き延びる可能性は格段に変わる。
できる限り街の住人には手を出さないことも学んだ。
ずっとこの街に住む人間を敵に回せば、生きるのが困難になるからだ。
老いて引退したというスリが気紛れに手管を教えてくれたこともある。
街の下半分を支配する組織というものがあり、このまま生きていればそのうち子供たちもそこに属することになるのだろうと寂しげに笑った。
どれぐらいの時間が経ったのかは判らない。
ただ、弟と二人で一日一日を必死で生きた。
その日は、酒場の集まっている地区の路地を順に覗いてみても、適当な相手は見つからなかった。
時間はもう真夜中を過ぎている。そろそろ酔い潰れる船乗りが出てきても不思議はないのだが。
ただ闇雲に動いても、腹が減るだけだ。建物の壁に掛けられた松明の灯りを避けて、蹲る。
そこここの酒場で喧嘩が始まったり、猥歌が流れたりする中、弟が小さく袖を引いた。
「向こう。……唸り声がした」
この弟は、人よりも耳がいいようで、今までにもよくこうして色々と聞きつけていた。
会話でなく唸り声、というならば、獲物となるかもしれない。できる限り静かに、路地に入っていく。
その奥には、溝に片足を突っこむ形で寝転がっている男がいた。
だが、今まで見たことがないほど巨大な体をしている。
「……でかいな……」
子供には、ただそれだけで恐怖を与えるのに充分だ。
しかし意識がなければ、それで目的は達することができる。意を決して、二人は男に近づいた。
「おじさん。おじさん、大丈夫?」
肩に手を当て、少し揺さぶってみる。だが、低い唸りが漏れただけで、男は目を開けようとしなかった。
それを確認して、そっと上着の中に手を入れる。隠しを作る場所のバリエーションは、もう大体把握していた。
何か固いものが指先に触れ、一瞬気を抜いたとき。
「グ……ゥァアアアアアアアアアア!」
咆哮を上げて、男が跳ね起きた。
勢いよく身体を払われて、石壁に激突する。背中をまともに打ちつけ、一瞬呼吸が止まった。
涙が滲む目を無理に開いて相手を探す。ぼやけた視界の中、男は既に身を起こしていた。
……大きい。
彼がまだ子供だったということを差し引いても、その男の巨大さは異常なほどだった。
小山のようなその巨躯に、背筋が震える。
だが、その手が子供の身体を掴んでいるのに気づき、反射的に立ち上がった。
空中に持ち上げられた弟は、苦しげにこちらへ手を延ばしてくる。
「……ちびを離せ!」
ナイフの鞘を放り捨て、叫ぶ。
唸り声を上げる男に突進した。だが、足を軽く動かしただけで蹴り飛ばされる。
また壁に衝突する、と覚悟し、目を閉じた。
しかし、先ほどに比べてはるかに柔らかな感触と共に身体は停止した。
「なんや。……また、ややこしいことになってんなぁ」
呆れたような声が、頭上から降ってくる。
目を上げると、どうやら黒髪の男が自分を受け止めたようだった。視線に気づいて、咥え煙草のまま人懐こそうな笑いを浮かべる。
とん、と街路に下ろされた。
「ええ子やから、坊ンはここで待ってぇ」
「でも、ちびが!」
また立ち上がろうとしたところを、片手で頭を押さえつけられる。そのまま銀色の髪を撫でて、男は宥めるように言った。
「大丈夫やって。おっちゃんが何とかしたるさかい。な?」
そして、男はふらりと前へ出た。紫煙が、ゆっくりと暗い空へ昇っていく。
「ちょっと穏便にいこか思とったけど……しゃあないなぁ」
呟いた次の瞬間、男の姿がかき消えた。
慌てて周囲を見回すと、いつの間にか巨漢のすぐ傍に立っている。子供を持ち上げているために無防備になっている脇腹に、黒髪の男は軽く掌を当てた。
小さな呟きが風に散った途端、何か強い衝撃を受けたように、巨躯がよろけた。
「ウ……」
呻いた数瞬後には、再び衝撃が巨漢を襲う。
「ウ、オ、オ、オ、オオオ、オオオオオッ!」
最初の一打で、黒髪の男の手はとっくに巨漢から離れている。なのに、まるで見えない巨大なハンマーで腹部を殴打され続けているかのように、巨漢は何度も後退した。
やがて、男が延ばしていた手を引いた。それと同時に殴打も止んだのか、巨漢の動きが止まる。荒い息遣いが、路地に響いた。
黒い上着の裾を風になぶらせながら、男はむしろ優しげな口調で告げた。
「おイタをしたらどうなるか、判ったやろ? 早いとこ、その子供置いて降参せぇ。まだヤるようやったら、今度はケツから手ぇ突っこんで脳髄ガタガタいわしたるで?」
「グゥ……」
迷うように、巨漢が男を見下ろす。
その瞬間。
兄は、腹を庇うように丸めていた巨漢の背中を一気によじ登った。
「なん……!?」
驚愕に、黒髪の男はぽかんと口を開いた。煙草が、街路に落ちて転がっていく。
隙を狙って近づくために、こっそりと暗がりを移動して背後に回っていたのだ。肩まで登り切った子供は、手にした小さなナイフを巨漢の親指の付け根に突き刺した。
「ちびを離せ!」
「ウオォオオッ!」
それは、被害として見れば先ほどの殴打に比べるまでもなく小さかっただろうが、全く予期していなかったことと、鋭い痛みであったことが何より効果的だった。
痛みを散らすように、咄嗟に巨漢が手を振る。
「うわっ!?」
振り落とされまいと、兄はナイフを持つ手に力を入れた。
ぐったりとした弟が、落下する。
「ちび……!」
が、石畳に激突する直前、滑りこんできた黒髪の男が小さな身体を受け止めた。そのまま、壁際に置いてある雑多ながらくたの中に突っこんでいく。
ほっとした瞬間、身体を掴まれた。無理矢理引っ張って、兄の身体ごとナイフを手から抜く。
「グゥオアアアアアアアアアアア!」
耳元で叫ばれて、空気がびりびりと震える。
握り潰そうとでもするかのように、巨漢の手に力が加わった。
「ぁああっ!」
「坊ン!」
悲鳴を上げるのに、男が慌てて振り仰いだ。受け止めた子供の身体を地面に寝かせ、起き上がろうとする。
血走った目が、近い。
そこには、既に正気のかけらもなかった。
みしみしと背骨が軋む。
荒い息が、顔にかかった。
「はな、せ……!」
それは、あまりに距離が近すぎたせいだろう。
闇雲に振ったナイフは、これ以上ないほど的確に巨漢の首を切り裂いた。
ばしゃ、と生温かい液体が上半身に降り注ぐ。
ほんの一瞬前に比べて、信じられないほど静かな長い吐息が漏れる。
ぐらり、と揺れた巨漢の頭の向こう側に、下半分だけの半月が現れ、ぼんやりとした視界で子供はそれを認識した。
そしてその巨躯は、どう、と地面に崩れ落ちた。
「ああもう、最悪や!」
悪態をつきながら、黒髪の男はその光景を見下ろした。
手早く、巨体の下敷きになった子供を引き摺り出す。
薄汚れた子供は、その身体の前面に血飛沫を浴びて気を失っていた。
「坊ン! ちょお、しっかりせぇ!」
ぺちぺちと軽く平手で頬を叩いてみるが、反応しない。
「……どないせぇっちゅうねん、ほんま……」
巨大な男の死体と、二人の子供の身体が転がった路地で、途方に暮れたように男は呟いた。
「……外傷はあまりありません。打ち身や裂傷が幾つか。あとは、過労……というか、栄養失調ですね。数日は疼痛を覚えるかもしれませんが、ゆっくり休めば回復するでしょう」
「ん。すまんな、榊」
「いいえ。では、目を覚ます前に食事の準備を進めて参ります」
静かにドアが開閉する音が聞こえる。
いつからか、ぼぅっと目を開けて頭上を見つめていた子供の耳に、呆れたような声が入りこんできた。
「全く、貴方を一人で行かせるとろくなことになりませんね」
「ワシのせいやないがな。……多分」
若い女の声と、男の声。
そのような人間が間近にいることに心当たりがなくて、訝しく思う。
だが、今身体を包んでいるものがあまりにも柔らかく、暖かくて、それ以外のことはどうでもよくなってしまっていた。
「そもそも、ワシがケリつけなあかんかったことを、これ以上ないほどの結果にしてくれたわけやしな……」
「貴方がそれを望んでいたわけではないでしょう」
きっぱりと切り返されて、男が口ごもる。
「大体連れて帰ってどうするつもりだったんですか。待っている人間がいるかもしれないのに」
「いやあのな。あんな時間に子供が二人だけでうろついてるなんて、まともな家やないやろ。しかも、あんなぼろぼろのかっこして。どう考えても孤児や。ちゃうか?」
「可能性で考えれば、違う可能性は零ではありません」
「……わあ。」
力が抜けたように男が呟いたが、それもどうでもよかった。
ただ。
「ちび……!」
がば、と上体を起こし、周囲を見回す。やたらとふわふわとして安定が悪い布の塊の中に彼はいた。すぐ近く、手を延ばせば届くところに弟の姿を認め、安堵に息をはく。
「お。起きたか。具合はどうや?」
横手から二人の人間が近づいてくるのに、びくりと身体を震わせる。
が、男の方には見覚えがあるのに気づいて、少しだけ力を抜いた。
「どっか痛いとことかないか? ん?」
床に膝をつき、少し高い台の上にいる自分に視線を合わせてくる。
黙って首を振ると、彼は安心したような笑顔を向けてきた。
「ここは?」
「ああ、ワシの家や。お前らが気絶しっ放しやったから、連れてきた。勝手にすまんな」
男の言葉に、首を傾げる。
「いえ?」
「家……知らんのか?」
自分の戸惑いをどう伝えればいいのか判らずに、眉を寄せる。
「家、は、知ってる。でも、中を見たことない」
物珍しく、ぐるりと見回す。外から見ると冷たい石で作られていた建物は、中から見るとまるで違った。壁には薄い色の紙が貼られ、床には色鮮やかな布が敷かれている。広い部屋の中には、木で作られたらしい台や箱が幾つか置かれていた。窓からは明るい陽の光が差しこんできているが、風が吹きこんではこない。
ふと、男女が僅かに顔をしかめていることに気づく。
何か悪いことを言ったのだろうか。怯えた表情になった子供の頭を、男は軽く撫でた。
「まぁええ。腹減っとるやろ。食べるもん用意しとるさかい、行こか」
ぱっと子供の顔が明るくなる。急いで、彼は隣で寝ている弟の身体を揺さぶった。
「ええから、そっちは寝かせといたれや」
苦笑して言う男に、首を振る。
食べられる時に食べておかなくてはならない。その考えが、身体に染みこんでいるのだ。
「ちび! 食べ物食べ物!」
そう言いながら揺さぶると、弟もすぐに目を開く。
茶色の髪の女性が辛そうな顔で見つめていたが、彼らは気づいていなかった。
子供たちの服は、今まで着ていたものではなかった。汚れ、破れ、小さくなっていたそれとは全く違い、清潔で暖かかった。そして、ものすごく大きかった。おそらくは子供の服などなく、大人のシャツを着せられていたのだろう。
気づけば、身体からも表面的には汚れが落ちていた。
家の中は、思った以上に広い。細長い部屋をずっと歩いて、彼らはまた扉をくぐった。
部屋の中には、一際大きな台があった。その回りに、少し低めの奇妙な形の台が幾つか置かれている。そのうちの二つには、厚みのある布の塊が重ねられていた。
台の傍に、初老の男が一人立っていた。白くなりかけた頭髪に髭を蓄えた男は、一行に深々と礼をする。
「急いで用意できて、消化のよいものといえばこの程度しか……。申し訳ございません」
「ええて。充分や」
黒髪の男がねぎらって、ひょいと兄の身体を持ち上げた。布の塊の上に腰掛けさせる。次いで、隣に弟が乗せられた。
台の上には、見たこともない量の食べ物が乗っていた。
幾つものパン、白い湯気を立ち昇らせるスープ、色とりどりの果物。
おずおずと、近くの台に座った男を見上げる。
他人の食べ物に手を出すのは危険だ。少なくとも、当人が見ている前では。
だが、男は笑ってこう言ったのだ。
「ええから食べぇ。全部、お前らだけの分や」
弟と顔を見合わせる。そして子供たちは、目下の関心ごとにとりかかった。
違和感を抱いたのは、まず食べ物が温かいということだった。
特に白く柔らかいパンが、割るとふわりと湯気が立ち昇ることが不思議で、じっと見つめてしまう。
そのうちに、食べる速度が遅くなっていたらしい。弟の前に置かれたパンの皿が空になっているのに気づき、自分の皿から分けてやる。
「……榊。追加」
静かな指示に、初老の男は一礼して従った。
ようやく、子供たちの食欲がひと段落した頃、男が口を開く。
「落ち着いたか?」
頷く二人に、まっすぐ向き直る。
「じゃあ、順番がちょっと遅ぅなったけど自己紹介でもしよか。ワシは四郎。こっちが三郎太や。お前らは?」
自分と、隣に立つ女性を示して告げる。子供たちはきょとんとして見返していた。
「名前は? あー、回りになんて呼ばれとる?」
「ちび」
「ちび」
互いに指し示しながら答えると、男は困ったように顔をしかめた。
「家族はおるんか?」
「ちび……、弟が」
相手が一体何に困っているのか判らず、正直に告げる。
「父親とか母親とか、他に面倒みて貰っとる大人はおらへんのか?」
「いない」
大きな溜め息をついて、四郎と名乗った男は髪の毛をかき回した。
「そしたら行くとこもないんやなぁ……」
言葉の意味が掴めない。
どこへ行くとか行かないとか、考えたこともなかった。
ただ、いた場所で生きていただけだった。
「よし!」
ぱん、と掌で膝を叩く。びく、と身体を震わせた子供たちに、笑みを向けた。
「お前ら、うっとこの子になり」
やはり言っている意味が判らず、きょとんと見上げる。
「し……」
「ワシと家族になろう、言うとるんや。悪ぅないやろ?」
「かぞく……?」
「四郎様!」
驚いたように息を詰まらせた三郎太をよそに、男は話を進める。訝しげに子供が尋ねたところで、女性は声を荒げて遮った。
「何やねん。何か、文句があるんか?」
「判りきったことを訊かないでください。貴方は、街に行くたびに子供を拾ってこないと気が済まないんですか?」
「今までに拾ったんは一回だけやろ」
視線をつん、と反対方向へ向けて、反論する。
「後先を考えて行動してくれと言ってるんです。大体……」
「三郎太」
低い声で、四郎は名前を呼んだ。微かに、三郎太の身体が震える。
「子供の前で大声を出すんやない」
ぐ、と唇を引き結び、三郎太が沈黙した。
改めて子供たちに向き直ると、四郎は真面目な顔を作った。
「ただ、一つ、約束して欲しいことがある」
上着の懐から何か光るものを取り出し、台の上に置く。銀髪の子供が、小さく息を飲んだ。
それは、兄が持っていたナイフだった。流された血は拭かれているが、以前に比べると刃は明らかに曇っている。
「お前は、昨夜、これで人を傷つけた。……覚えとるか?」
硬い表情で頷く。
勢いよく迸った血の温かさまでがまざまざと蘇る。
「あの男は、それで死んだ。死ぬ、ゆうことがどういうことか判るか?」
まっすぐに訊かれて、首を振る。彼らは少なくとも記憶にある限り、他者の死に直面したことはない。
「何も、できんようになる。動くことも、考えることも、楽しいと感じることも、辛いと感じることも、悪いことをすることも、ええことをすることも」
静かな言葉が不吉な響きで流れていく。少しぞっとして、兄弟は無意識に手を繋いだ。
「可能性が、全て、絶対的に、零になる。それが、死ぬゆうことや。つまり人を殺すゆうことは、その人間の可能性を一方的に消すことになる。……約束して欲しいんは、今後、できる限り人を殺さんといて欲しいんや」
男の指が触れていたナイフが、小さくかたかたと音を立てる。手を引いて、四郎は自嘲気味の笑みを浮かべた。
「勿論、お前らが生きるか死ぬかって状況の時までそんなことをしろとは言わん。自分の身体は護らなあかんからな。でも、それほどでもない時には、人を殺すって選択はせんといて欲しい。……それに、ワシがおる限り、お前らをそんな危険な目には遭わせへんから」
真剣な瞳で見つめられる。
彼の言葉はまだ難しく、よく判らないことが多かったけれど。
「……はい」
兄と弟とは、そう返して頷いた。
四郎が、子供のような笑顔を浮かべる。
「ん。ほな、ワシらは家族や。ええな?」
両手で、ぐしゃぐしゃと息子たちの頭を撫でる。
「せやな……。まず、名前が要るな」
数十秒考えて、子供たちをじっと見据える。
「兄貴のほうが『次郎五郎』。弟が『九十朗』で、どうや」
「じろうごろう?」
「きゅうじゅうろ?」
反復して、兄弟は顔を見合わせ、互いに照れたような笑みを浮かべた。
「……貴方のネーミングのセンスには言葉もありませんよ……」
子供たちが、互いに何度も名前を呼び合う横で、三郎太は呆れたように呟いた。
「何か文句でもあるんか、三郎太?」
にやりと笑って見上げてくるのを、彼女はそっぽを向いて無視した。
子供たちは、まだ余りにも幼かった。
その為に、今まで周囲の大人たちは彼らを欺くということはなかった。
欲しければ奪い、暴力を振るいたければ殴り、好意を持てば優しくした。
騙すという手間など必要なかったからだ。
だから、この養父の行動を、彼らはそのままに受け入れた。
裏切られるなどということは、全く考えもしなかったから。
ああ、確かに、この頃彼らは幸福だった。