Here We Go!!
アクアリウム

「どうかされたのですか?」
 朝食の席に剣を携えてきた兄弟を見咎めて、城主が尋ねた。
「いや、何もしないでぶらぶらしてるのも嫌だからさ。あとで、どこか適当なところで鍛錬でもしようかと思ったんだよ」
 九十朗の言葉に、彼はにこりと笑う。
「ああ、でしたら城内に練兵場がありますから、後ほどご案内しますよ」
 その時は、申し出をありがたいと思ったのだ。


 ここは、エルナスの山奥。一年の大半が雪と氷に閉ざされる土地では、屋外の練兵場は殆ど使われない。
 トゥキは、朝食後に兄弟を地下へと導いた。
 暗い、長い階段を下りた先の廊下を曲がると、大きな窓から雪山に乱反射する光が飛びこんでくる。
「え?」
 眩しさに目を眇めて、小さく声を漏らす。
「こちら側は山の斜面に向いてますから、外部に面して窓が取れるのですよ。下は絶壁です。覗いてみますか?」
 トゥキの説明に、九十朗が窓に走り寄った。薄いガラスの向こう側は、深い谷に向かって急角度で落ちこんでいた。
 ぞくり、と背筋が寒くなるのが少し楽しい。
「こちらの奥が練兵場です」
 言って、トゥキは大きな扉を片手で示した。
 その両脇に立っていた衛兵が、鹿爪らしく敬礼した後に扉を開く。
 練兵場は、巨大な空間だった。
 広さは三十メートル四方ほど。一面の壁には、やはり大きく窓が取られている。アーチを描く天井は、それでも暗がりに潜むほどに高い。
 内部には、数十人の兵士がいて、一斉にこちらを注目した。
「現在、城内にいる兵はおよそ百二十名ほどです。四交代で城の警備や業務に当たる者、休息を取る者、鍛錬する者等に別れています。今、ここには五十名ほどいることになりますね。……さて」
 一通り説明して、兄弟に向き直った。穏やかな笑みを浮かべて、続ける。
「ひとつ、お手合わせをお願いできますか。彼ら、全員と」

 五十名。
「半々でも二十五人か……」
 九十朗が考えこむ。
「俺が十人取るからお前は四十人な」
 腕を組んで、次郎五郎が返した。
「何でっ!?」
「体力的に比べたらそれぐらいが妥当だろう?」
 慌てて問い質すが、静かにそう返されて弟は黙りこんだ。
「……次郎、狡い……」
 小さく呟くのに、兄は視線を明後日の方向へ向けただけだった。
「まあ、そうおっしゃらずに。先日、八十人の敵を退けたお二人の手腕に、我が部下たちも感服しております。どうぞご遠慮なく、胸を貸してやってください」
 殊更礼儀正しく、城主はそう告げた。背後にいる兵士たちは、純粋に期待を膨らませているらしい。
 九十朗はややげんなりとしたが、次郎五郎の反応は違った。
「なんだ。あれでいいのか?」
 呟くと、弟に視線を向ける。
「九十朗。ここは俺が全部引き受けよう。……なに」
 僅かに足を開き、腰に帯びた刀に片手をかけた。
「この程度の人数なら、一瞬で済む」
 その、凄みの利いた声に、兵士の中から息を飲む音が漏れた。
 先ほど城主の言ったように、この青年がほぼ一人で八十人の兵士を一瞬で戦闘不能に追いこんだことは、まだ生々しい記憶に残っている。
「あ、あの、次郎五郎殿、あまり手厳しくは……」
 慌ててトゥキがとりなそうとする。だが。
「とりあえず、焼死と凍死と感電死と中毒死は選べるぞ。多数決で決めるか。どれがいい?」
 薄く笑みを浮かべ、銀の前髪の影から兵士たちを睨めつける。
 小さく、兵士たちから悲鳴が零れたとき。

「そういじったんなや、次郎」
 半ば呆れたような口調で、背後から現れた四郎が片手を次郎五郎の頭に乗せた。
 ばつの悪そうな顔で姿勢を正し、青年は養父に向き直った。
 相手はどうやら開け放していた扉から入ってきていたらしい。その後ろには、三郎太も従っている。
「四郎様? 何で……」
 驚いたように九十朗が尋ねる。四郎はどうやら忙しいらしく、ここしばらく昼間はほぼ執務室に籠もっていたのだ。
「ん? お前らがどれだけ強ぅなったかちゃんと見とこか思ぅてな」
 あっさりと告げる四郎に、三郎太は小さく溜め息をつく。
 それを気にした風でもなく、彼は咥え煙草のままにやりと笑った。
「ま、こいつらは確かにトゥキの子飼いの奴らやけど、ワシの組織のもんでもあるから、あんま苛めんといてくれや」
「……はい」
 素直に頷く。苛めようとしていたことは否定していないが。
「でも正直な話、俺は『小狡い手』を使わないと、さほど人数は捌けませんよ。使うには相手が必要だし、使ってしまうと怪我をさせるのは避けられません」
 その言葉に、一同が考えこむ。
「よし。とりあえず、外出よか」


「……で、どうして雪だるま作りなんですか……?」
 眩く光を反射させる中庭で、トゥキが呟いた。
 彼の部下たちは四郎の命令で数人ずつに別れ、雪玉を作っている。
「運動不足の解消と雪かきには丁度ええやろ」
 にやにやと笑いながら、ボスは告げた。
 雪かき、と言っても、表面の柔らかな雪の層の下には固い根雪が残っているので、はっきり言ってあまり意味はない。
 十数分経って、五体の雪だるまが完成した。
 戸惑う兵士たちを、四郎は壁際まで下がらせる。
 小さく溜め息をついて、次郎五郎が進み出た。
「察しがええなぁ」
 養父の呟きはあえて聞かなかったことにする。銀髪の青年はトゥキに、そして彼が統率する兵士たちに向き直った。
「あれが相手だと、冷気と毒は意味がないから、炎と雷だけを使うことにする。それぐらいの距離が空いていたら大丈夫だと思うが、鎧を着ている者はできるだけ離れていてくれ」
 一通り周囲を見渡して、雪の塊へ視線を投げる。
 モンスターや人間でない相手にこの技を向けることは、殆どない。あったとしてもこちらへの攻撃を相殺させるために放つことばかりで、生きていないもの自体を相手どるのとは勝手が違う。
 刀に手をかけながら、ゆっくりと目を閉じる。
 瞬間、刃を水平に振り抜いた。
 同時に迸った炎が雪の塊の前面を襲い、一瞬でそれを半分ほど溶かしてしまう。
 息を飲む兵士たちの前で、溶けた部分が徐々に凍りついていく。
 即座に刀の柄に空いていた手を添えて、返す刀で半壊した雪だるまの頭上から垂直に雷撃を落とす。
 轟音が殆ど間を措かずに五回、響いた。
 肩の力を抜き、刀を鞘へ納めた。弾け散った雪だるまの残骸を一瞥して観客へ身体を向ける。
 彼らに向けて一礼したのは、ペリオンで師事した男の影響だ。
 驚嘆するような空気の中、家族の元へ戻っていく。
 何故か得意げな表情の九十朗の肩を叩く。
「じゃあ、次はお前の番な」
「えぇっ!?」

 結局、柔らかな雪が一掃されたその場で、九十朗は兵士たちと総当たり戦をすることになった。流石に愛用の大剣は使わず、訓練用のなまくらの剣を使っている。
 技量としては九十朗が上だが、相手が多いのと足下が滑りやすいことに慣れていないせいで、結構いい勝負になっているようだ。
 また一人、鮮やかに相手の剣を跳ね上げるのを眺めていると、人影が近づいてきた。
 何やら複雑な顔をした城主だ。
「……どうかしたのか?」
 水を向けてやると、僅かに躊躇って口を開く。
「貴方は、その……、あの技を、誰かに習ったのですか?」
「いや。何となく身についたんだ」
 正直に答えると、彼は眉間に皺を寄せて溜め息を漏らした。
「……ありえない」
「本人を目の前にしてる状態でまた正直だな」
 やんわりと咎めるが、トゥキは首を振る。
「異例だ、ということですよ。私も、魔法を使う剣士という存在は聞いたことがあります。が、四要素全てを扱えるなんて、前例がない」
「そうなのか?」
「ええ。そもそも本職のメイジですら、一個人としては火と毒、または氷と雷という二つの要素しか扱えないのです。その垣根を取り払うことなんて、不可能だ。それに、ポイズンミストに通常の毒の効果以外を出せるなんて……」
「一応、ヒール紛いの技も使えるぞ。人を傷つける武器で癒す、というのが今ひとつぴんとこないからやりにくいが」
 さらりと補足すると、さらにぽかんとした顔で見つめられた。
「……無茶苦茶ですね……」
 諦めたように呟くのに、肩を竦める。
「無茶苦茶というなら、大体『魔法によって世界を変える』ということ自体が無茶苦茶だ。つまりは、想像力だよ。それから集中力と実行するだけの覚悟だ。俺は不可能という制限なんて、最初に剣で魔法を放った時に越えてしまっている」
 しかし、トゥキは納得できないという表情を崩さない。
「本職は頭が固いな。あんたも、その気になったら四要素の魔法も扱えるかもしれないぞ?」
「そそのかさないでください」
 皮肉げな笑みを浮かべる次郎五郎を、プリーストは軽くいなした。
「まあ、それはもういいとして……。もう一つ、ちょっと疑問に思ったんですが」
 納得はできないが、訊くことを訊いたせいか少しばかり表情から暗さが消える。
「貴方は、その技を遠距離攻撃でしか使えないのですか?」
 問いかけられた言葉が意外で、数度瞬く。
「ああ。……いや、近距離で使ったことがないでもないが。魔法、という効果があるのだから、大体は遠距離で使ってたな」
 元々、魔法での攻撃の最大の利点は遠距離からの攻撃が可能ということである。剣による技として使う場合でも、次郎五郎は無意識にそういう選択をしてきていた。
「それが悪い、という訳ではないですが。折角剣から魔法を放てるのなら、こう、斬りつけた時にそれを発動させれば、一点集中になる分効果が大きいのではないかと思ったものですから」
「なるほど」
 確かに、遠距離からの攻撃では純粋に攻撃力だけを考えるとロスが大きいのかもしれない。
 すらり、と刀を抜いて、虚空に向けて構えた。
 そのまま小声で何かを話している次郎五郎とトゥキを、薄く笑みを浮かべながら四郎が眺めていた。

 結局、九十朗の勝ち抜き戦は、連続では四十二人でその記録は止まった。


 そうやって、日々が続いていた、ある日。
 兄弟は、養父に呼び出されて城塞の一室にいた。
 しばらく前に彼と再会した、あの大広間だ。
 彼らが部屋に入った時、四郎は不安げな顔でうろうろと歩き回っていた。
「お呼びですか、四郎様」
「あ、ああ。わざわざすまんな」
 明らかに普段と違う様子に、次郎五郎と九十朗が視線を合わせる。呆れた顔で、三郎太が傍に控えていた。
 四郎は大きく息をつくと、真っ直ぐに子供たちに向き直った。酷く平坦な声で話し始める。
「お前らに、仕事をしてもらうことになった。しばらくここから離れることになる。ええな?」
 二人の答えは決まっている。
「お望みのままに」
 即答する兄弟に頷くと、彼は王座の後ろに回りこんだ。ちょいちょい、と片手で彼らを呼びつける。
 おとなしく傍へ寄る。四郎は王座の背後にかけられていた、どっしりと重いタペストリーに手を添えていた。
 何だか覚えのある光景だ。僅かに考えこむ兄弟をよそに、四郎はそれを引いた。
 吊り下げられた先にレールでも造られているのか、それは簡単に横へ移動する。
 隠されていた壁には、巨大な扉があった。
「これ……」
「覚えとるか?」
 掠れた声で呟くのに、少しばかり懐かしそうに四郎が問いかける。青年たちは小さく頷いた。
 扉の中央に、既に見慣れた六枚羽根の隕石を模した浮き彫りが施されている。
 それは、あの懐かしい屋敷にあった扉と同じで。
「これは、言ってみたら五人目の遺産や。ワシの存在と反応して、作動する。この世界にはワシが住める場所が幾つかあるけど、そこには必ずこの扉があるんや」
「遺産……」
 小さく繰り返す。
「扉と扉は術で繋がっとって、ワシはこれを通って土地を移動する。多分大丈夫やけど、ワシが通過することで大地に負担をかけるわけにもいかんからな」
 その説明に、九十朗がきょとんとした顔になる。
 つまり、彼を捜して世界の街を巡ったのは、殆ど骨折り損だったのだ。
 ちょっとばかり泣き出しそうな気分になったが、次郎五郎はそれを堪えた。
「……せやけど、何かここしばらく、調子がおかしいねん。どこかから、小さな声が聞こえてくるようになった」
「声?」
 小首を傾げて問いかけると、養父は眉を寄せて巨大な扉を見上げた。
「他の屋敷の管理者に問い合わせたけど、異変は起きとらん。この接触の大体の起点も絞りこんだけど、そこには屋敷を設けてないんや。そこで何が起きとるんか、お前らに調べてきて貰いたい」
「はい」
 既に、二人は完全装備だ。
 すっかり成長し、その姿が板についている兄弟を、僅かに切なげな瞳で四郎は見つめる。
「扉の向こう側がどういう状況かは全然判らん。できる限り、無事に戻ってきてワシに報告することが一番の使命や。ええな?」
 念を押し、従順に頷く青年たちを一瞥して、四郎は扉に向き直った。
 片手の掌を、凶津星の文様に押しつける。
 低く、世界がずれる音が響いた。
 扉の隙間から、乳白色の霧が零れ、渦を巻く。
 押し開けられた扉が充分に開いたことを確認して、四郎は一歩退がった。
 片手をそれぞれ武器の柄にかけて、兄弟がその前に立つ。
 冷え冷えとした空気が彼らの身体を包む。
 その奥から、僅かに、低い呟きが切れ切れに伝わった。
「では、行って参ります、四郎様」
「行ってきます!」
 薄く、深く笑みを浮かべて、次郎五郎と九十朗が扉の向こうへ足を踏み出した。
 一瞬で霧がその姿を覆い隠す。
 ゆっくりと閉じていく扉を、四郎はじっと見つめていた。
 呆れた表情を保ったまま、三郎太が口を開く。
「……[一枚羽根]に任命した時点で、いずれ任務に出さなくてはならないことぐらい判っていたんでしょう」
「せやけど、こんな早ぅ……」
「他の者と比べたら遅すぎたくらいですよ。いい加減に子離れしたら如何ですか?」
「三郎太は他人ごとやからそんなこと言うけどなぁ」
 ごつん、と男の額が石造りの扉に寄せられる。その情けない姿に、三郎太は小さく溜め息を漏らした。
「……誰に向かって他人ごととか言ってるんですか」
 小さく口の中で呟く。
「何か言うたか?」
 言いたいことは大体はっきりと言う彼女らしくなくて、四郎が問いかける。
「いいから仕事の続きをしてください。二人のことが心配で進まなかったなんてことになったら、あの子たちがどれだけ肩身の狭い思いをすると思ってるんですか」
 その言葉に、思い切ったように顔を上げる。執務室へと戻っていく四郎の背中を、じっと三郎太は見つめていた。


 扉の内側は、乳白色の霧が渦巻いていて、全く視界が効かなかった。
 ただ切れ切れに流れてくる声を辿り、用心深く足を進める。
 その足下が、ふいに確かさを失った。
「っぁあ!?」
 驚愕に目を見開いた二人の身体が、深い水に包まれる。
 一瞬つんと潮の香りがして、背筋が粟立つ。
 港町の裏通りで生まれ育った彼らには、海はただ恐怖の対象でしかない。
 そして、何よりも。
「……九十朗っ!」
 弟は、鎧を身につけている。
 手を延ばした先で、黒い髪がゆっくりと沈んでいく。
 自分の長い銀の髪がゆらめき、視界を遮るために、弟の姿が判然としない。
 その時、焦る次郎五郎の鼻先を掠めるように、一本の鎖が頭上から投げこまれた。

 ばしゃ、と音を立てて、二つの頭が水面から持ち上がる。
「大丈夫ですか?」
 無言で荒い息をつく兄弟がその声に視線を上に向けた。
 崖の上から鎖は伸びており、その傍に人影が見えた。逆光で、姿形は定かではない。
「上がってこられます? 手をお貸ししましょうか」
「……いや、大丈夫だ」
 慎重にそう返す。
 軋む鎖を握りしめ、数メートルの高さの崖を登る。やや傾斜のついた地面の上で、心配したような顔で男は待っていた。
 改めて見ると、相手は驚くべき風体だった。ぼさぼさの髪、顔一面を覆っている髭。身体を申し訳程度に覆っている布は、かろうじて服と呼べるかどうかという代物だ。
「あの鎖はあんたが下ろしてくれたのか?」
「はい。水音がしたので、誰かいるのかと思って」
「ありがとう。助かったよ。俺は次郎五郎。こっちは弟の九十朗だ」
 小さく悪態をつきながら濡れたマントを脱ぎ捨てている九十朗の頭を掴んで、こちらを向かせる。
「大したことではないですから。僕はロビンソンです」
 僅かにひっかかりを感じたが、とりあえずそれはおいておく。
「ここは、一体どこなんだ?」
 周囲を見回しながら尋ねる。
 どうやら、小さな島のようだった。広いところで幅は五メートルほど、長さは二十メートル程度だろう。真ん中よりもややずれたところに、二本の椰子の樹が生えていて、僅かな緑が見てとれた。
「ここはアクアリウムという街の上です」
「……上?」
「アクアリウムは、海中の街なんですよ」
 理解が及ばなくて、眉を寄せる。
「この海は、他の大陸の海と少し違うらしいのです。浮力が強く、水中でも呼吸ができます」
「え?」
 きょとん、と九十朗が問い返す。
「先ほど、海に落ちた時に息苦しかったですか?」
 焦っていてよく覚えていないのが本当のところだ。しかし、弟の名前を呼んだときに、海水を飲んで呼吸ができなかったという記憶はない。
「不思議なところだな……」
 ぼんやりと煌めく水面を眺める。
「ああっ!」
 突然、驚愕の叫びを上げて九十朗が兄の肩を掴んだ。
「どうした!?」
 慌てて振り向くと、こちらも今まで見ていた方向から呆れた顔を向けてきた。
「……次郎、まだ濡れたマント着たままなのか? 風邪ひくぞ」
「そんなことを言いたかったのかお前は」
 憮然として言い返す。
「いや違うけどさ」
「すみません、ここには乾いた布とかないものですから……」
 困ったような顔でロビンソンが口を挟む。
「気にしないでくれ」
 そう返すと、急かすように九十朗が肩を揺すぶった。
「そうだ、あれだよ次郎、あの樹の下! 大きめの岩があるだろ」
「岩?」
 さほど遠くはないが、狭い上に植物も生えているのでよく見えない。立ち上がり、近づいてみる。
 草をかき分けると、弟が言った通りに太股の高さ程度の白い岩があった。その表面には、ひっかいたような線が描かれている。
 小さく、息を飲む。
 それは、二つの長方形を隣接させていた。その中央に、いびつな羽根を生やした隕石の絵が描かれている。
 彼らは、以前にもこれと似たものを見たことがある。
 記憶が、一つに繋がった。
「……ロビンソン」
「はい?」
 確かめるような呟きに、返事が返ってくる。
 ゆっくりと振り向いて、次郎五郎は尋ねた。
「あんた、以前、地球防衛本部にいたんじゃないか?」
 男の表情が強ばった。

「……ええ、僕は地球防衛本部のパイロットです。いえ、でした」
 地面に座り直して、ロビンソンが話し始める。
「あの日、定期的な敵地への偵察に出たんです。勿論危険はありますが普段と同程度で、僕はさほど心配していませんでした。ですが、突然システムに異常が発生して、草原に不時着することになってしまったんです」
「俺たちはあんたの捜索に参加した。ここが具体的にどこかは知らないが、地球防衛本部のすぐ傍というわけじゃないだろう。どうして、こんなところにいるんだ?」
 次郎五郎の質問に僅かに困ったような表情を見せて、口を開く。
「遭難して一週間ほどが経った頃でした。そろそろ非常用の食料も尽きて、武器もないのに無理を承知で本部まで踏破するしかないかもしれない、そう覚悟を決めた頃です。……僕が身を潜めていた森の中に、一つの大きな岩があったんです」
 予期してはいたが、兄弟が身体を強ばらせる。
 彼らは、それも目にしていた。
「あそこにある、あの岩をもっと大きくしたような形をしていました。描かれている模様も含めて。……その夜に、岩に描かれた扉が開いたんです」
 元パイロットは、僅かに自嘲気味の笑みを浮かべる。
「とうとう気が触れたのか、と今なら思います。あれはただの線でしかなかったのに。でも、その時は、扉の向こう側から溢れる光を見て、僕は救われたのだと感じました。肉体だけでなく、魂の奥底から」
 嫌な汗が、掌に滲む。
 養父は、この土地には扉がない、と認識していた。
 ならば、今目の前にある、そしてあの森の中にあった扉の絵は。
 ……養父が敵とみなしている相手と密接に関係している可能性が、高い。
「扉の向こう側からの声に呼ばれて、僕はその中へ入りました。……そうしたら、ちょうど先刻の貴方たちのようにこの海に落ちてしまったわけなんですけども」
 だから、彼は突然現れた二人にさほど驚かなかったのか。
「でも、あれからもう二年経ってるだろ? どうして戻らなかったんだ?」
 不思議そうに九十朗が尋ねる。
 ロビンソンが肩を竦めた。
「脱出のごたごたで、丸腰だったんです。先ほど、街の上と言いましたけど、ここが真上というわけではありません。アクアリウムまで辿り着くには、それなりの距離を進まなくてはならない。モンスターの出没する地域を武器もなしに進めるほど、僕は強くない」
「まあ、それは大抵の人間はそうさ」
 慰めるように、九十朗は片手を相手の肩に置いた。
 どうやら、四郎が案じていた奇妙な状況は、この場にこの岩があったことで起きたらしい。だとしたら、今これ以上の探索は意味がない。一度報告して、指示を仰がなくてはならないだろう。
 次郎五郎が考えこんでいる間も、他の二人の会話は続いている。
「ここにずっといるのは嫌なのですが、どうせ防衛本部の方では僕は脱走兵扱いになっているでしょうから、今更戻ることもできません。それに、人が通りかかるのはかなり稀です。救けを求めてはみるのですが、都合がつかないようで」
「いやどんな都合なんだそれ」
 呆れたように九十朗が呟く。
「冒険者というのは、大体自分のことが優先ですからね。仕方ありません。でも、色々と情報は聞くことができましたから。先刻の、街がちょっと遠いとかいうこともそうですし、あのデザインそのままの、きちんとした扉が海底にあるとかも」
「なに!?」
 突然の大声に、二人がびくりと身体を震わせる。それを気にも留めずに、次郎五郎は詰め寄った。
「あの扉って、あの、岩に描かれた扉のことだよな?」
「え、ええ……」
 ちょっと腰を引き気味に、ロビンソンが頷く。銀髪の青年は、刀を掴んで立ち上がった。
「案内してくれ。代わりに、その後であんたを街まで送り届けよう」
「え、いやでも、本当かどうか判らないんですよ? 噂ですから」
 慌てたように告げるが、取り合わない。
「俺たちはそれを調べにここに来たんだ。頼む」
 次郎五郎の真剣な言葉に、訝しげな表情を崩さないながら、ロビンソンは頷いた。

 マントは水中では動きを妨げるだけだろうということで、椰子の樹に渡した綱に干していくことにした。
「鎧は大丈夫かな……」
 眉を寄せて、九十朗が呟く。
「今までにも、鎧を着た冒険者はいましたから、沈んだままだということはないと思いますが……」
 ロビンソンの言葉に、首を振る。
「いや、錆びないかなと思って」
「そっちなのか……」
 呆れたように次郎五郎が呟く。彼は視界を確保するために、渋々長い髪の毛を一つに纏めていた。
「鎧に錆が出ると、手入れが大変なんだよ。次郎には判らないだろうけど」
「むしろ剣も錆びかねないんじゃないか」
 そう指摘すると、一層難しい顔で考えこんだ。小さく溜め息をついて、九十朗に向き直る。
「ほら、いいから行くぞ。仕事なんだ。あの人のためなら、鎧や剣を赤錆まみれにするぐらい大した代償じゃない」
「判ってるよ」
 肩を竦め、立ち上がる。
 先ほどの鎖を掴み、実は崖ではなかった鯨の脇腹を下っていく。
 肩まで海に入ったところで、覚悟を決めて鎖から手を離した。
 ゆっくりと、ゆっくりと身体が沈んでいく。
 薄く唇を開いてみるが、呼吸には全く支障がない。
 周囲には色とりどりの魚が泳いでいる。
 ここは、明らかに海の中だというのに。
「……不思議なところだな……」
 九十朗も、もの珍しげに周囲を見回していた。
「扉は海溝の洞窟の奥だということですから、傾斜を下りていってみましょうか」
 ロビンソンの言葉に頷き、足を進める。
 時折襲いかかってくる海洋生物のモンスターは、彼ら兄弟にとってはさほど強い敵ではなかった。
 だが、海中の視界の悪さと身体の動きへの抵抗から、思ったように動けない。
 結果として、予想した以上に彼らは疲労を感じていた。
 そうして小一時間ほど進んでいった辺りで、ロビンソンが足を止めた。
「……あれ、ですかね」
 崖の、一際深く抉れた辺りに、うっすらと洞窟の外形が見えた。中は暗く、先がどうなっているのか見えない。
「……行くか」
 自らの志気を鼓舞するように言って、次郎五郎はその中に足を踏み入れた。

 洞窟の中は暗闇かと思っていたが、しばらく進むと奇妙な光源が現れた。
 親指程度の大きさの、細長い物体が青白く発光しながら海中で揺らめいているのだ。
 初めは警戒したものの、どうやら触れても被害は受けないものらしい。何とか足下が確認できるほどには明るく、彼らはゆっくりと先に進んでいった。
 しばらく続いた洞窟は、やがて巨大な空洞へ到達した。
「うわ……」
 九十朗が絶句する。
 足下は、数メートルの幅の岩棚になっており、その先は果てしない深淵に続いていたのだ。
 眼下も頭上も、そして前方すらどこまで空洞が続いているのか目視できない。
 その巨大な空間に、ちらちらと発光する生物が揺れていて、酷く幻想的な光景が広がっている。
「まだ先……なんだろうな」
 困ったようにロビンソンが頷く。
「ずっと下りていった先にまた洞窟があって、その奥に扉があったそうです。どうみても人工物だったので印象に残っていたと言っていました」
 岩棚は、一方は崖に突き当たって終わっていたが、もう一方はゆるやかに下っている。
 そちらに向かうことにして、次郎五郎と九十朗は先に進んだ。
 時折遭遇するモンスターを斬り捨てながら、岩棚を数段下りていく。
 疲れからか、次郎五郎がふいによろめいた。
 それに気を取られ、弟が僅かに身体の向きを変えた瞬間。
 閃光が視界を掠め、九十朗の身体はゆっくりと崩れ落ちた。
 次郎五郎が眼を見開く。衝撃を和らげようとする努力など全く見せず、青年の身体は岩の上に倒れた。
 その、身体のラインが不自然に抉れているのを目にした瞬間、次郎五郎は視線を背後に向けた。
 何時間にも思えたが、それは精々数秒だったのだろう。
 数メートル離れた場所で、ロビンソンが立ち尽くしている。
 両手に、銀色の金属の塊を掴んで。
 迷わず地を蹴る。ただ無言で、自分を見据えて走り出した銀髪の戦士に、ロビンソンは慌てて手を向けた。
 一瞬、彼の方から光が迸り、反射的に身を翻す。衣の裾がそれに掠り、僅かな反動に身体が揺れた。
「うぁあああああ!」
 ロビンソンは叫びながら更に手を動かすが、それ以上金属から光が発することはなかった。絶望した表情を浮かべ、それを放り出すと男は次郎五郎に背を向ける。
 地上であれば、逃すことはありえない。だが、水の抵抗がどうしても動きの邪魔をする。
 それでも数秒間逃げ出すのが遅れた分だけ、充分追いつけるはずだと判断する。諦めることなど、最初から頭にはない。
 血の気の失せた顔で背後を振り向くと、ロビンソンは足をたわめた。踏み出す力で、やみくもに上昇していく。
 冷静に、次郎五郎は目の前の身体に向けて刀を振り抜いた。
「あぁあああああああああ!」
 絶叫が深海に響く。
 両足の腱を切られ、苦痛にもがきながらロビンソンの身体は沈んだ。
 岩棚から落ちかけるのを、次郎五郎が引きずり上げる。
「う……あ、あ……」
 恐怖と苦痛にがたがたと身体を震わせる男に、顔を近づける。
「俺が戻ってくるまで、ここから動くな。これ以上逃げようとするなら、今度は確実にお前を殺す。忘れるな、俺はお前を絶対に見失ったりしない」
 激昂もせず、平坦な声でそう告げる青年に、ロビンソンは何も返せない。それを放り出し、次郎五郎は倒れた弟の元へと駆け戻った。
 九十朗の左の脇腹が、拳二つ分ほどの大きさで鎧ごと消滅していた。鎧の断面は僅かに熔けた痕がある。傷口は炭化していて、一滴の血も流れだしてはいなかった。
 ロビンソンが持っていたのは、おそらく光線銃だ。武器がない、と言っていたのは嘘だったのだろう。あの様子では、もう使うだけのエネルギーが残っていないのかもしれない。
 革の手袋を片方外し、首筋に指を当てる。九十朗には、僅かに脈があった。だが、どう楽観的に見ても瀕死だ。このまま、都市の保護魔法によって街まで転移させた方がいいだろうか。
 いや、と次郎五郎は唇を噛んだ。
 街に戻れば全ての傷が癒される訳ではない。この状態では、街へ転移して、そこで改めて死へ向かうだけだ。そして、自分にはそれを捜しだすだけの時間も与えられない。
 ……ならば、ここで治すまでだ。
 抜き放ったままの刀を、持ち替える。外した手袋で刀身をくるみ、その上から掴んだ。冷たい刃は、革を隔ててすらひやりと背筋を寒くする。
 慎重に、切っ先を傷口に触れさせた。意識を集中し、僅かに力をこめる。
 嫌な感触が手に伝わる。びくん、と九十朗の身体が跳ねた。
 怯む心を無視し、ただ一点に集中する。
 『癒す』ための、意思を。
 じわり、と周囲に血の味が滲み、そして、刀の触れた周囲の断面が変化した。
「……治れ」
 小さく、呟く。
 今まで感じたことのないほどに身体が熱い。だが、その熱はすぐに周囲の海水に奪われてしまい、そのせいか妙に思考は冷静だ。
「なお、れ」
 ゆっくりと、刀の位置と意識を移動させる。
「九十朗……っ」
 十数分ほどして、次郎五郎は静かに刀身を弟の肉体から抜いた。力なく肩を落とし、白い指を黒い髪に触れさせる。
「……う……」
 低く、九十朗が呻く。
 その左脇腹は、奇妙に柔らかさを感じられる皮膚が露出していた。
 抉られ、炭化した部分は、微塵も見られない。
「莫迦、な……!」
 ロビンソンの呟きに、ゆらりと次郎五郎が視線を転じる。
 先ほどとは段違いに面やつれした様子に、びくり、と身体を震わせた。
 手に刀を握って立ち上がる青年を、恐怖に身動きもできないまま見守るしかできない。

「……血の、匂いがするな……」
 掠れた声が、その均衡を破壊した。

 岩棚の暗がりから姿を見せていたのは、奇妙な装いの女性だった。
 濃い紫色の髪は長く、足下までゆるやかに波うっている。黒い、巻き貝を模したような帽子を被っていて、同様に黒い衣服は大胆に肩と腹部を露出させ、長い裾を引きずっている。
 青白い顔に浮かぶ表情は物憂げで、興味もなさそうに、その場を一瞥した。
「……ふむ。怪我人が一人、武器を抜いた者が一人、半裸で倒れている者が一人、か」
 端的に状況を整理すると、彼女は視線を最も近い場所にいる次郎五郎に向けた。
「で、どんな修羅場なのだこれは」
「厳密には違う」
 ぶっきらぼうに答える。軽口を叩く気分ではない。
 肩を竦めかけた女性が、視線を一点で止めた。
「そなた……、その、刺青は」
 手袋を外していた方の手を、軽く持ち上げる。その手の甲には、半月ほど前に彫った、一枚の翼を持つ隕石の刺青があった。
 彼らが剣士である以上、傷が治るまで剣が持てないのは不都合だから、と掌に彫るのは反対されたのだ。どうやら、場所は結構どこでもよかったらしい。
「いや、羽根は一枚か……。もしや、六枚の羽根の刺青を持つ雄を知らないか?」
 問いかけに、目を見開く。
 六枚羽根の紋章を持つ者は、組織の中でもボス一人きりである。
「どうして、それを知りたいんだ?」
 用心深く問い返す。
 彼女はまっすぐに視線を返して、答えた。
「私は海の魔女カルタ。五百年ほど前に、その六枚の羽根の刺青を持つ雄への預かり物を頼まれている」

 ゆっくりと足を進めながら、背後を振り返る。
 九十朗とロビンソンは、それぞれ数匹の奇妙な細長い魚の上に身体を横たえ、後ろからやってきている。魚たちは魔女の命令を従順にきいているようだ。
 あのあとはとりあえず、彼女の棲む場所まで行こう、という流れになっていた。
 傷は治したものの、九十朗の意識はまだ戻っていない。以前次郎五郎が大怪我をし、クレリックがヒールで癒してくれたことがあったが、傷が治っても体力まで戻ったわけではなかった。今も似たような状態になっているのだろう。
 魔女と名乗った女性は、衰弱に効く薬なども調合できる、と請け合った。彼女が信用できるかどうかはともかく、九十朗はせめてモンスターが出没しない場所で安静にしてやりたい。
 それに、彼らを不意打ちで襲ってきたロビンソンを逃がしたくはない。カルタの住処で拘束しておけるなら一応安心だ。
 カルタのあとについて歩きながら、道々次郎五郎は今までの顛末を簡単に話した。勿論、組織や任務に関することは告げなかったが。
 ロビンソンの足の腱を切ったことの発端が、いきなり背後から撃たれたことだと知って、カルタは憤慨したようだった。
「裏切り者の上に卑怯者か。あの状態にしてあるのは、落ち着いて嬲り殺しにするためか?」
 背後で、小さく悲鳴が上がった。
「個人的に、そうしてやりたいのは山々なんだが。彼が裏切ったのは、俺たちだけじゃないかもしれない。そこを聞き出さないことには、死んでもらう訳にもいかないんだ」
 彼ら個人を襲う理由など、ロビンソンにはない。
 しかし、[凶津星の翼]を、だったらどうか。
 その原因を判らぬまま殺してしまうのは、組織に対して自分が無能だと告げるようなものだ。
 尤も、もしも九十朗が助からなかったとしたら、どういう行動に出たかは自分でも自信がないが。
 薄く、自嘲気味に笑みを浮かべる。
「おお、そこだ」
 それを気にした様子もなく、カルタは小さな洞窟を指した。

 洞窟の中は、意外と居心地がよかった。
 こじんまりとした空間が幾つか連なり、使い勝手のよい家具が置かれている。
 水中だからなのか布団はないものの、きちんとした造りの寝台の上に九十朗の身体を横たえる。
 鎧を脱がせることには少々手間取ったが、カルタの見立ては心配ないだろうということだった。
「この雄は元々健康そうだしな。ゆっくり休んで、血の気の多いものを食べさせればすぐに回復するだろう」
 その言葉に、幾らか安堵する。
 とりあえずロビンソンの方は、使用頻度が低いという倉庫を使わせて貰うことになった。
 恐怖を通り越して呆然としている男を見下ろす。
「どうして、俺たちを襲ったんだ? 少なくとも、地球防衛本部でのお前の評判は素晴らしかったはずだ。何人もがお前のことを案じ、いなくなったことを悔いていた」
「……奴らには判らない。僕には、あんなところで闘うよりも、もっと崇高な使命があるのだ」
「それは何だ?」
 しかし元パイロットはそれ以上口を開かない。しばらく待ったが、諦めて部屋を出る。鍵をかけて、小さく溜め息を漏らした。
「色々とありがとう、カルタ。……じゃあ、貴方の話を聞こう」
 頷いて、彼らは九十朗のいる部屋へ戻った。彼女は何も言わなかったが、おそらく次郎五郎の心中を思いやってのことだろう。
 ややぶっきらぼうで風変わりではあるが、好感の持てる相手のようだ。
 ……が、先ほど手酷く裏切られたところでは、彼女もさほど信用もできないが。
 ベッドの傍に二脚の椅子を寄せ、彼らは向かい合って座った。
「さて、最初から話をした方がいいだろうな。ざっと五百年ほど前のことだ。私はまだ駆け出しの魔女で、大した名声もなかった。何百年もの実績を持っているならともかく、そんな魔女は信用されず、棲むところもすぐに追い出されるというのが常だ」
 飄々とそんなことを話されて、ちょっと対応に困る。
「色々な場所を転々として、私はこの洞窟へ辿り着いた。いや、招き入れられた、と言った方が正しいか。この洞窟には一人の老人が住んでいて、そこへ厄介になったのだ」
「老人?」
 生真面目な顔でカルタが頷く。
「私は人魚族だ。アクアリウム周辺に住む元々の種族は、全て人魚族だった。が、その老人はどうやら人間だったのだ。今でこそアクアリウムでは人間との交流もあるが、当時は酷く珍しいことだった。
 彼はこの洞窟で何かの研究をしていたらしい。私の魔術とは全く違うもので、何をやっているのか推測もできなかったが」
 興味も持たなかった、という顔でそう告げられる。
「ほんの数ヶ月で、老人はここからいなくなった。むしろ、私にここを任せるためにしばらく一緒にいた、という感じだった。この洞窟の殆どの部屋と調度を好きに使っていい、と言ってくれた」
 では、この人間に合わせてあるような家具類は、その老人のものだったのか。何となく感慨深くて、周囲を見回す。
「だが、それには条件があった。いずれ、ここに一人の雄がやってくる。そうしたら、この場所を彼に譲ってやってくれ、とそう言われたんだ。
 それが何年後か判らなかったが、その時棲むところすらなかった私はそれを引き受けた。
 そして、その雄の目印というのが……」
「掌の、六枚羽根の隕石の紋章」
 ぽつり、と次郎五郎があとを引き取る。
「やはり、知っているのだな?」
「心当たりはあるよ」
 探るような問いに頷く。安堵したように、カルタは背もたれによりかかった。
「そうか。よかった。その約束だけが、心残りだったんだ。ほら、人間の寿命というのは、普通はかなり短いだろう? ここへ来る前に、その雄が死んでしまっていたら、私はいつまでここにいなくてはならないのかと」
「ここには、もういたくないのか?」
 ふとした疑問に、魔女は首を振った。
「ここは、申し分ない場所だ。静かで滅多に邪魔されない。石を投げて私を追い出す者もいない。……一応、前の住人から貰い受けたのは私だからね。それでも、その恩を感じるにつけて、約束が果たせないことが気になって仕方なかったんだよ」
「律儀なんだな」
 感想を漏らすと、少し照れたようにそっぽを向いた。
「それに、好奇心もあった。老人が、絶対に開けるなと……いや、開けられないと言った扉があったんだ。私が譲り渡すその雄でしか開けられない、扉が。その向こうに何があるのか、それを見てみたいと思っていた」
 ふと、カルタは次郎五郎の表情が強ばっているのに気づいて、小首を傾げた。
「その……、扉は、見に行くことはできるのか?」
「ああ、開けるなと言われただけだから。見たいのか?」
「頼む」
 訝しげな表情ながら、カルタは了承して立ち上がった。

 洞窟の奥深く、直径二十メートルほどのドーム型の空間の壁に、その扉はあった。
 何度も見た、観音扉の中央に、燃えさかる羽根の生えた隕石をあしらった、扉が。
 血の気の失せた次郎五郎を、むしろ気遣わしげにカルタが見上げる。
 決断を下すまでには、随分と迷った。
「……カルタ。俺は、ちょっと戻らないといけない。必ず帰ってくるから、それまで弟とロビンソンを頼めるだろうか」
「それは構わないけれど……、お前の弟が起きた時に不安にならないか?」
「あいつの神経はかなり図太いんだ。少なくとも錯乱して暴れ回るなんてことはないから、安心してくれ。一応、簡単に事情を書いて置いておく。……多分、貴方が待っている男を連れてこれるだろうと思うんだ」
 五百年も待ち続けた彼に会えるのならば、それまでは自分たちを裏切ることはないだろう。
 その打算を察しているのか、カルタは相変わらず飄々とした表情で頷いた。
「期待しておくよ」


 水上に顔を出すと、そこはすっかり陽が沈んでいた。
 海中ではどれほどの時間が経ったのか、判然としなかったので無理もない。
 鎖を辿って鯨の背に登る。水を滴らせながら、次郎五郎は小さな岩に歩み寄った。
 海を渡る風が、体温を奪っていく。
 背筋が冷えるのはそのせいだと言いきかせ、次郎五郎は口を開いた。
「……四郎様。四郎様、聞こえますか?」

 待ったのは、ほんの数分のことだった。
『次郎か?』
 僅かに掠れたような声が、小さく響く。
「はい」
 安堵に、ぺたりと座りこむ。濡れた服が立てた水音に、不審そうな声が返ってきた。
「いえ、何でもありません。……一旦、今まで判ったことを報告します」
 そして、彼はこの場で起きたことを全て口にした。
 話し終えてしばらくは、沈黙が続く。
『その、ロビンソンっちゅう下衆は、拘束してあるんやな?』
「はい。カルタがわざと逃がさなければ。しかし、おそらくその可能性はないと思われます」
 養父に負けず、冷え切った声で次郎五郎が返す。
『よし。……しかし、五百年か……。アクアリウムっていうのは、オルビスのずっと下にある地域なんやけどな』
「そうなんですか?」
 オルビスから行ける土地、というのは一通り調べたことがある。だが、アクアリウムという都市は聞いたことがなかった気がする。
『あまり公にされてへんからな。人魚族っちゅうのは、結構難しいとこがあるみたいやさかい。わざわざワシも行こうとか思わへんかったし。……五百年、か』
 酷く年月に拘っていた四郎は、そこで三郎太を呼んだ。
『なあ、あれや。ほれ、ワシがオルビスを一旦全部ぶっ壊したん、あれ、確か六百年ぐらい前やったよな?』
『……知りませんよ。その頃、私はお傍にいませんでしたから』
 呆れたように、三郎太が返すのが聞こえる。
『んー。多分、あんま間違ってへんと思うんやけど。大体百年の差があるってことは、多分間に合うんやろうなぁ……』
 二人の会話には横槍を入れない。それは、兄弟が拾われてすぐに教えられたことの一つだ。
『ん。とりあえず、ワシが今からそっち行くわ。そのまま待っといてくれ』
「お願いします」
 無言で大人しく待っていた次郎五郎は、少しばかりほっとして答えた。
『お気をつけて。四郎様』
 三郎太も、それを咎めはしない。
『おぅ。ちょっとばかり、軽ぅく捻ってくるわ』
 楽しげなその言葉を機に、世界の空気が僅かに変わる。
 目の前の岩から、黄金色の光が迸った。
 夜の闇の中に、一筋の道標のように。
 何かを忘れている気がして、次郎五郎がやや眉を寄せた。
「……ぉおおおおおおおおっ!?」
 そして、叫び声と共に、すぐ近くの海に勢いよく水柱が上がる。
『四郎様っ!? 次郎、何があったの?』
 焦ったような三郎太の声にも、すぐには反応を返せない。
「あー……。ええと、四郎様って泳げましたっけ……?」
『……見たことはないけど、多分泳げるとは思うわ』
 何となく全てを察したのか、三郎太は淡々と返してきた。
「なら大丈夫だと思いますが」
「ちょっとは心配せんかっ!」
 怒声を上げながら、四郎が浮かび上がってきた。
『子供に心配かけるなんて父親失格でしょう。それぐらい痩せ我慢しておいてください』
「……なんでこんなに空気が冷たいんやろうなぁ……」
『それは海に落ちたせいですね』
 哀愁を漂わせる四郎を、ばっさりと三郎太が斬って捨てた。
「ええと、では行ってきますね、三郎太さん」
『行ってらっしゃい。四郎様が迷惑をかけると思うけど、頑張って』
「大丈夫ですよ」
 静かにむせび泣いているらしい養父に困ったような視線を向けて、次郎五郎は答えた。
 とん、と軽く空中に飛び出し、四郎から少し離れた場所へ落下する。
 一旦沈んだ身体がもう一度浮上すると、四郎は僅かに哀しげな瞳で見つめてきていた。
 すぐにそれが、今は髪を結っているからだと気づく。普段、前髪で隠している眼帯が露わになっているのだ。
「……進みましょうか、四郎様」
 視線を逸らし、告げる。ぽん、と大きな手がその頭に乗せられた。
「おぅ」

 道を知っているからだろう、カルタの住処に辿り着くのにはさほど時間はかからなかった。
 洞窟の前での呼びかけに、彼女はすぐに姿を見せた。
「……貴方が?」
 ゆっくりと、四郎の姿を上から下まで眺め渡す。頷いて、彼は左の掌を差しだした。
 傷一つなかったそれに、じわり、と渦を巻くように紋様が浮かび上がる。
 それを確認して、カルタは明らかに肩の力を抜いた。
「次郎と九十朗が世話になったようで。申し訳ない」
「私は何もしてないよ。……そう、弟のことだけど」
 困ったように、次郎五郎を見上げる。
「どうか、したのか?」
 嫌な予感を押し退け、尋ねた。
「目を覚ましたのはいいけど、食事を摂ってくれないんだよ。好き嫌いが多いたちなのかい?」

「だって次郎、生の魚なんだぜ、生の! しかも、まるまる一匹とか! 幾ら俺でも無理なものがあるんだよ!」
 拳を握って力説する九十朗を、苦笑いしながら次郎五郎は見つめた。

 部屋に入ると、まっすぐに四郎はベッドまで進み、きょとんとして座っている九十朗を乱暴に抱きしめていた。
「起きて大丈夫なんか? 痛いとことか、ないか?」
「大丈夫ですよ、四郎様。次郎が治してくれたから。……ご心配おかけして、すみません」
「……阿呆」
 四郎からの謝罪は出ない。これは、任務だ。本来、何が起きても全て兄弟の責任なのだから。
「トゥキがアドバイスしてくれたからですよ。戻ったら、礼を言っておかないといけないな」
 柔らかな笑みを浮かべて、次郎が口を挟む。
 その後、どうして食事を摂らないのかと尋ねた返事が、先のものだった。
 よく考えれば、ここは海中だ。煮炊きはできないし、干物も作れないだろう。
 飢えて仕方がなければそれも食べられるのかもしれないが。
「もう少し待っとって貰えたら、連れて帰ってやれるさかい。ちょっとだけ辛抱してや」
 くしゃ、と四郎が黒髪をかき回す。
「……では、四郎様。ロビンソンのところへ?」
 事務的に告げるが、四郎は首を振った。
「いや。ここで尋問してもどれだけ吐くか判らへんし、何よりカルタの邪魔になる。帰る時に一緒に連れて行くわ。うちには、それなりにエキスパートが揃っとるしな。……それより」
 一瞬だけ凄絶な表情を浮かべた男は、くるりとまた表情を変えた。
「先に扉の始末をつけた方がええやろ」

「扉……ですか?」
 戸惑ってそう問いかける。部屋の隅で彼らの様子を見ていたカルタが、その単語に興味を引かれたようだ。
「ああ。あれは、多分五人目の遺産やろ。ワシの目的には、五人目を見つけること以外に、五人目の残したものを破壊する、っちゅうもんもある」
「扉を破壊するんですか?」
「いや、そうやない。……五人目は、今で言う生体練金を主な研究にしとった。多分、その目的は、『世界を破壊すること』や。今までにも幾つか扉を見つけてきたけど、大体その中にはあいつの創った生命体がおる。世界を、破壊するための生命が」
 千年以上前に、四郎を創ったように。
「お前らと初めて会った時、ワシがわざわざ一人であそこにおったんは、やっぱりそういう生命体を壊しに行く必要があったからや。そいつはまだ未完成で、殆ど脅威もなにもないやつやったけど、それでも野放しにしとく訳にはいかんかったからな。……お前らには、悪いことをしたと思っとる」
 ぽつりと告げられた言葉が、ゆっくりと理解されていく。
 名もない子供が、何も判らぬまま、殺してしまった巨漢。
 彼に罪を負わせてしまったことを、この男は未だ悔いているのだ。
「……四郎様があの時来てくださらなければ、最初の数分で俺たちは死んでしまっていましたよ」
 静かに本心を告げる。僅かに弱い笑みを見せて、四郎は話を続けた。
「五人目は、昔、言うとった。ワシには絶対に壊せへんものが二つあって、その内の一つが『世界』や、って。扉がワシにしか開けられへんのも、ワシを倒せへんようではそいつらに世界は壊せへんからやろ」
「四郎様にしか開けられないのなら、放っておけばいいんじゃないですか?」
 九十朗が、率直に尋ねる。
 そうすれば、脅威は扉の外へ放たれない。
 だが、四郎は渋面を作った。
「ワシもそう思った時があったんやけど。あの阿呆、時々気紛れに扉を開放しよる。正直、オルビス全壊のうち三分の一ぐらいはあんとき暴れた生命体のせいや」
「……困った人なんですね……」
 眉を寄せて、呟く。
「……先刻から言っている、その、五人目というのが以前ここに住んでいた老人なのか?」
 カルタが口を挟んできた。
「その可能性は高いな」
 四郎の返事に、彼女はむっとした表情になった。
「しかし、あの老人はそんな性悪ではなかったぞ。礼儀正しく、それなりに思いやりもあった」
「あの阿呆は外面だけはええねん。それに、昔から別嬪さんにはえらい愛想よかったからな」
 ぱたぱたと手を振って答えるのに、複雑な表情でカルタが黙りこむ。
「さて、と。ほな、扉の前まで案内して貰えるか?」
 全く気負った様子もなく、四郎は無造作に立ち上がった。

 巨大な扉の数歩手前で、妙に感心したように四郎はそれを見上げていた。
 その後ろには、カルタと次郎五郎に加え、破れた鎧下姿の九十朗もいる。
「……お前らそろそろ戻っとってええんやぞ?」
 何度か告げた言葉を、もう一度繰り返す。
 肩を竦めて、カルタが口を開いた。
「五百年も待たされたのだから、私には扉の向こう側に何があるのかを見届ける権利ぐらいはあるはずだ」
「相手が危険であるなら、四郎様を一人で向かわせる訳にはいきません」
「鎧は使えないけど、剣は無事だったから、大丈夫ですよ」
 続いて息子たちにまで反論されて、長く溜め息をつく。
「助太刀してくれるんが、例え[剣聖]やったとしても、五人目の遺産には歯が立たん。いるだけ邪魔や」
 素っ気なく言うが、背後の三人は頑として動かない。
 低く呻いて、男はまっすぐ向き直った。
「判った。この部屋の、入口傍におれ。手助けは要らん。ただ、カルタの安全を護れ。……もしも、ワシが扉の向こう側のヤツにやられてしもても、絶対に仇を討とうなんて考えるな。お前らには無理や。ただひたすら逃げぇ。全力を出さんと、すぐ追いつかれるで。逃げて、エルナスの城まで行けたら、三郎太に報告するんや。どうすればいいのかはあいつが知っとるさかい。即座に手を打たへんかったら、世界はヤツに滅ぼされる。……それでも、それが防げるかなんて保証はないけどな」
 その、言葉の凄絶さに、沈黙が下りる。
「それ……ほど……?」
 掠れる声で、次郎五郎が問う。両腕を組んで、四郎は宣言した。
「被害はこれでも少なく見積もってる。……ま、でも大丈夫やろ。ワシが、五人目の最高傑作が、百年やそこらで促成栽培された生命体に負けるわけあらへん」
 改めて扉に身体を向けると、ひらりと片手を振ってみせる。無言で、三人は広間の入口まで下がった。
 四郎は無造作に扉の前まで進み、左掌をそれに押しつけた。
 彼の掌に紋様が浮かぶ際に現れる、渦を巻く黒いもやのようなものが、扉と掌の隙間から溢れ、四郎の腕にまとわりつく。
 緊張する三人をよそに、[破壊と絶望を撒き散らす狼]は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「壊れぇ」
 柔らかですらあるその声に被さるように、かん、と何かが鋭く破壊された音が、広間に響く。
 扉から手を離し、身構えるでもなく立つ。
 ゆっくりと、巨大な扉はその向こう側の闇を晒け出しつつあった。
「よぅ。短い生涯にしてもぅて悪いなぁ。兄弟」
 片手にもやを纏いつかせたまま、四郎が告げる。
 闇の奥に、鋭く光る目が二つ、見えた。

 その眼の中間、やや下方の位置から、更に激しい光が迸った。
 つい数時間前、弟の身体を抉り取っていった武器を連想し、背筋が僅かに凍る。
 しかし当の弟は、背に負った大剣を一瞬で抜き放ち、兄と魔女の前にほんの一歩で踊り出た。
 暗がりと漆黒の髪に遮られた養父の顔が、僅かに笑みを浮かべたように見える。
 次の瞬間、軽く広げただけの掌に閃光は遮られていた。無音で揺らめく黒いもやが、瞬時にそれを包含する。
 ぽかん、と兄弟と魔女はその光景を見つめていた。
 四郎の腕が、大きく振られた。黒いもやが、薄く周囲に広がっていく。
 次の瞬間、一足飛びに男の身体は敵との距離を詰めた。
 子供の頃とは違い、何とかその動きを目で追うことはできる。
 だが、やはり常識外れに速い。
 ずず、と何かを吸いこむような音が響く。
 立て続けに飛ばされた光の弾を、四郎は僅かに身を捩ってかわした。標的を失ったそれは、彼の後ろに引き延ばされたもやに触れ、包まれて消える。
 しかしその部分は相殺されるらしく、薄い膜のようなもやには幾つか穴が空いていた。
 目の前に立つ九十朗のぴくりともしない背中が、酷く緊張しているのが判る。
 このまま闘いが続けば、そのうちあの隙間をかいくぐってこちらへ攻撃がくるだろう。その時、彼は自分がそれを防ぐつもりなのだ。
 その覚悟を知ってか、四郎は無造作に敵の左側面に回りこんだ。相手の眼の光が、ぎょろりとそれを追う。
 延ばした左手が僅かに動き、次の瞬間、鈍く響く音と共に闇の奥の眼が揺れた。右側にゆっくりと倒れていく。
 ひょい、と四郎が屈みこむ。
 よ、と小さく呟いて、足下に差しこんでいた手を軽く上へ動かした。
 どちらかというと細身の男の腕で扉の外へ放り出されたのは、巨大な魚だった。顎から頭頂部までの高さが五メートルは超えるだろう。赤い、ぬらりとした鱗が鈍く光る。
 横になったまま全く動かないそれに、ふらりと四郎は近づいた。
「なんや、やたら硬いな……」
 眉を寄せてそう呟く。
 じろじろと見下ろしていた視線の先で、ぎろりと巨大な眼球が睨め上げた。
「……ッ!」
 鋭く息を吸って、両の二の腕を顔の前で交差させる。一瞬で溢れ出た黒いもやが、四郎と巨大魚との間に楕円状の膜を形成した。
 それとほぼ同時、半開きの巨大魚の口蓋から拳大の光の粒が複数飛び出した。
 盾とした膜に次々と穴が空くが、それは即座に修復された。
 男は歯を食いしばり、立て続けの直撃に耐える。
 四郎へ襲いかからなかったうちの幾つかが、奇妙なカーブを描いて最初に作られたもやの膜に大きな穴を空けた。その隙間をかいくぐり、一つの光球が入口傍の三人へと向かう。
 軽く脚を開き、しっかりとそれを見据えた九十朗が、片手で剣の柄を、片手で刃を掴んだ。
 ばつん、と身体に響く音を立てて、彼は光の粒を剣の腹で弾き返した。
「……ってぇ!」
 腕に走った痺れに、悪態をつく。無事だった籠手は身につけてきていたが、それがなければ幾ら鋳造の大剣とはいえ怪我をしていただろう。
「大丈夫か?」
「平気!」
 短く尋ねる次郎五郎に、軽く返す。
 ちらりと背後に流した視線の先にいた兄は、片手を軽く刀にかけ、まっすぐに養父を見つめていた。
 関わるな、と言われた言葉を、事と次第によっては反故にするつもりなのだろう。
 そしておそらく、それを見極めるために、自分とカルタの防御に関しては、全て弟に一任しているのだ。
 九十朗が再度、敵へ視線を戻す。
 巨大な赤い魚は、身体をくねらせて体勢を立て直し、再び四郎と相対していた。
 四郎が再度腕を振り、周囲にもやを広げる。今回はやや濃く、広めの範囲だ。
 そしてそれに紛れるように、男は数メートル横へと走り出た。
 煙幕が薄くなり、四郎の姿が見えそうになる場所までくると、軽く地を蹴り、飛び上がる。
 兄弟がそれを注視していては、姿を隠している意味がない。彼らはまっすぐ巨大魚の動向のみを見つめていた。
 空中で身を捻り、右手を延ばす。鋭い音を立てて、その延長上で魚の鱗が弾けた。
「ああもう、無駄に硬いな!」
 思ったほどの威力が出ないのか、四郎が口走る。
 巨大魚はそれに反応を見せるが、動きはのろい。
 魚の背の上に着地する。滑りやすいのか、数歩たたらを踏んで、四郎は両手を相手の尾びれ近くに押しつけた。
「砕けぇ!」
 怒声と共に、立て続けに破裂音が響く。
 流石に効果があったか、狂ったように暴れ出した巨大魚に、四郎はそれでもしばらくは破壊行為を続けていたが、やがて堪えきれずに振り飛ばされた。
 十数メートル離れた岩盤に叩きつけられる。
「四郎様!」
 兄弟は揃って駆け出した。九十朗はまっすぐ四郎の元へ、次郎五郎は巨大魚に向かって。
 走りながら、鯉口を切る。
「……じろ、よせ……っ」
 小さな声が漏れるが、無視する。
 海中では、炎も雷も毒もさほど効果は出ない。
 だが、身体の周りの水を凍らせ、動きを封じることぐらいはできるだろう。
 未だ錯乱する敵を見据え、刀を振り抜いた。
 しかし。
「……なに……」
 世界は、微塵も変わらない。
 技が成功した時と失敗した時とでは、手応えというものが違う。今のは、明らかに失敗ではない。なのに。
「次郎五郎、戻れ!」
 養父の掠れた叫びに、奥歯を噛みしめる。そのまま、くるりと背を向け、養父の元へと駆け寄った。
 近づくにつれて、ざわりと背筋が寒くなる。
 四郎の黒の上着に隠れて今まで見えなかったが、その下の白いシャツには、明らかに血液である大きな赤い滲みがあった。
「次郎……!」
 動揺した九十朗が、泣きだしそうな目で兄を見上げている。
「四郎様、今治療を……」
 傍らに膝をつくと、苛立った目で睨め上げられた。その視線の強さに、思わず竦む。
「いらん。……痛覚は最前から壊してあるさかい、心配せんでええ」
「それは、心配しない理由にはなりません!」
 痛みを感じないということは、単純に長時間戦えるということとイコールではない。
 そんなことは四郎も充分判っているのだろう、息子の反論を歯牙にもかけない。
「それより、ヤツとやり合うな言うたやろ。自分、ワシの言うこともきけへんのか?」
「……はい。すみません」
 肩を落として素直に謝罪すると、それで気が済んだのか四郎の表情が和らぐ。
「ヤツらには妙な付加属性がついとる。どうも、あいつは特殊スキルが効かへんタイプやな。ワシの[破壊]ですら威力が減っとる。もう、物理的な力押しで潰さなあかんのやろうけど、やたら硬いときとる」
 四郎の言葉に、唇を噛む。
 先ほどの、技が発動しなかったのはそのせいか。
 ならば、やはり彼らが手を貸すことはまず無理なのだ。
 ゆら、と四郎が身体を起こした。
「四郎様……!」
 心配そうな九十朗の声に、苦笑して男は軽く右手を振った。その指先から、数滴血飛沫が飛ぶ。
「ええから向こうで待っとけ。心配はいらん。父親っちゅうもんは、何でもできるもんなんや」
 ふと思い立ち、次郎五郎は帯から下緒を解き、鞘を外した。手にしたままだった刀を納め、四郎へ差し出す。
「……お前の刀やろ。それは人に貸すもんやない」
 それは、次郎五郎の戦士としての面を尊重してくれた言葉なのだろう。だが、銀髪の青年は静かに首を振った。
「俺の力ではあれに太刀打ちできないし、身を護るなら九十朗がいてくれます。これは、ビクトリアで一番と言われた剣士から譲り受けた刀です。貴方が使えば、あれにも通用するかもしれない」
 無言で兄弟を見つめ、四郎は刀を手に取った。
 そして、もう振り向かず、暴れまくる巨大魚へ向かう。
 心配そうに見送る弟を促し、元いた場所へ戻る。
 呆れた表情で、カルタがそれを見ていた。
「すまない、勝手なことをした」
 謝罪に、小さく肩を竦める。
「気にすることはない。そもそも、お前たちに護ってもらう理由はないのだし」
 魔女と名乗る女性の肝の太さに、少しばかり感嘆する。
 それに気づく風でもなく、彼女はじろじろと兄弟の顔を見上げていた。
「……何か?」
「いや。父親、なのか?」
「ああ」
 短く返す。
 血が繋がっている訳ではないから、兄弟と養父は似ていない。その辺のことを何か言われるのかと思ったが、カルタはそうか、と呟いただけだった。
 絶叫が響いて、慌てて背後を振り向く。
 ずっと四郎の方を見ていた九十朗が、ぽかんとして立っていた。
 先ほど四郎が砕きかけた、巨大魚の尾びれがすっぱりと落とされている。
 両手で刀を手にした四郎が、九十朗に劣らず呆気にとられてその傍にいた。
 魚の鱗が反射しているのか、やや赤みがかった刀身にまとわりつくもやが、まるで踊っているかのように激しくざわめいている。
「……こいつは、やばいな。長いこと持っとられへんか」
 眉間に皺を寄せ、四郎が呟く。
 苦痛のあまり、巨大魚は四郎から距離を取った。身体をくねらせて、やみくもに口の奥から光線を発する。
 再び、九十朗が剣を構える。
 だが、今回は流れ弾はこちらへ向かってこなかった。
 身を低くして、四郎が海底を駆ける。一筋の光条が右脚を貫くが、その速さは揺らぎもしなかった。
 正面から、巨大魚へと向かう。浴びせられた光線を、直前まで刀を握っていた左手で払う。
 ばしゃ、と顔に血飛沫がかかるが、眉一つ動かさない。
 そのまま、伸ばした左手で巨大魚の口吻を掴んだ。
 ぐん、と身体をくねらせてはね飛ばそうとするのを、顎に脚を踏ん張って防ぐ。
 そして、右手で構えた刀を、自らの掌を縫い止めるかのように貫いた。
 刀身は男の手を、そして魚の頭部を滑らかに蹂躙する。
 びくん、と巨大魚の身体が痙攣した。
 四郎が小声で何かを呟く。
 数度爆発するかのようなくぐもった音が響き、ゆっくりとその異形の姿は海底へと沈んでいった。

 無表情で、刀を引き抜く。黒いもやは既に男の周囲にはないが、その代わりというように流れ出した血が海水に混じって赤く染まっていた。
「……四郎様!」
 顔色を蒼白にした兄弟が駆け寄る。
 刀を鞘に納め、無事だった右手を軽く挙げてそれに応えた。
 九十朗が、そのままの勢いで四郎に抱きつく。男は一瞬息が詰まったように眉を寄せた。
「大丈夫、大丈夫やって。ほんまに心配性なんやなぁ、お前」
 苦笑して、九十朗の背を軽く叩いてやる。
「ああもう、本当に無茶苦茶なことをするんですね!」
 心配のあまり、次郎五郎が怒りの声を上げた。
「……お前、ほんまに三郎太に似てきたな……」
「そりゃ三郎太さんだって怒りますよこんなことされてたら!」
 心底彼女に同情しつつ、返す。
 四郎は肩を竦め、九十朗をしがみつかせたままの手で刀を差しだした。
「ほれ、返すわ。おおきに。……せやけど、それも凄まじい代物やな」
「え……。そうですか?」
 ちょっと意表を衝かれる。
 これはペリオンに滞在していた時に師事していた男が、兄弟が旅立つ時に餞別代わりに与えたものだ。だが、彼のコレクションの中ではさほど大したことのない、量産品に近いものだという話だったので、遠慮もせずに貰ってきていたのだが。
「そうでもないやろ。この感触やと、少なくともお前の技との相性は他の武器よりもずっとええはずやし、そこら辺考えてくれたんやないか? ……凄すぎて、もうワシは触りたないけどな……」
 そんなものだろうか。そう思っていると、九十朗が顔を上げた。
「もう、次郎! そんなこと話してないで、四郎様を治してくれよ!」
 見れば、四郎は満身創痍である。慌てて刀を抜きかけたが、その手を上から四郎に押さえられた。
「え……?」
「いやもう頼むし。言うたやろ、ちょっとその刀は勘弁してくれ」
 心底辟易したと言うように、告げる。
「でもそのまま放っておくわけにはいきませんよ!」
「大丈夫やて。あの扉をちょっと微調整したら、すぐ使えるようになるから、そしたらエルナスの城まで一瞬で行ける。あっちには医療班がダース単位でおるんやし。……ああ、そうやった」
 視線を上げる。少し離れた場所に、遠慮がちに立っていたカルタを手招いた。
「騒がせて悪かったな。もう何時間かしたらうちのもんを何人かよこしてあの魚とロビンソンとを回収するさかい、それまでちょっと置いとかせて貰えるか?」
「好きにすればいい。この洞窟はもう全部貴方のものだ」
 あっさりと返される。
「せやけど、行く場所とか決まってるんか? 急なことやったのに」
 戸惑って尋ねるが、彼女は小さく肩を竦めた。
「どうせ来たときには身一つだったのだから、出て行くときにそうでも支障はない。棲家を探すのは時間がかかるだろうが、それだって当たり前のことだ」
 淡々と返ってくる言葉に、渋面を作る。
 彼女にとっては、この五百年、いつ出て行ってもいいつもりでいたのだろう。むしろ、四郎の反応を訝しく思っているようだ。
「事後処理にちょっと何日か邪魔するつもりではあるけど、その後ここに住むつもりはないんやけどなぁ……」
「そうなんですか?」
 この扉がある場所には、屋敷を設けている、そう聞いていたので思わず口を挟む。
「ワシがおらんでも、ここに人を置いておくのは無理やろ。火が使えへんのやから、食事に困るやろし」
 確かに、毎日生の魚ばかりを食べなくてはならないというのはぞっとしない。
「好きにするといい。貴方のものだ」
「まあ、ここから出るんは何日か待っててくれるとありがたい。礼をせんといかんし、色々訊きたいこともあるさかい」
 相変わらず不審そうではあったが、それについてはカルタも了承した。

 巨大魚の身体をぐるりと迂回して、扉に近づく。
「ほな、早いとこうちに帰るか」
 四郎が血にまみれた掌を延ばすのを、はらはらと見守る。
「とにかく煙草も吸いたいしなぁ……」
 養父が切望するように小さく呟くのに、次郎五郎と九十朗は顔を見合わせ、そしてちょっとだけ笑った。

 
2009/03/01 マキッシュ