Here We Go!!
ノーチラス

「髪が伸びたな」
 普段無口なマンジがそう呟いたのは、兄弟がぺリオンへ戻ってきて一年ほど経った頃のことだった。
「そうですか?」
 さらりと、次郎五郎が流す。
 元々、肩近くまであった髪は、今ではもうそれを越えている。長い前髪は、頬の辺りまでを隠していた。
 気配も感じさせずにその毛先を掴まれて、内心怯む。
「お前の意図は判っている。傷を恥じているのだろう」
 咄嗟に彼の手を払い除けたい衝動を抑える。世話になっている相手だ。失礼なことはできない。
 額から左頬にかけては包帯を巻いているのだし、顔が露にされているわけでもない。
「……剣士の傷は恥だと、一年前に散々罵倒された覚えがありますが」
「恥を恥のまま置いておくなら、お前はまだまだ未熟だ」
 次郎五郎の言葉に、考える間もなく反論して、マンジは手を離した。無意識に肩の力を抜いた弟子にはもう視線も向けない。
「ああ、お前の弟が帰ってきたら、お前から話しておくといい」
 訝しげな少年を気にもとめず、屋内ですら笠を脱がない男は先を続けた。


「旅行?」
 食事の手を止めて、九十朗が訊き返す。
「ああ。気晴らしにちょっと出かけてきたらどうか、ってマンジさんが」
 次郎五郎の言葉に、弟は露骨に眉を寄せた。
「……あの人が、気遣いだけでそんなこと云うのか?」
「云わないだろうなぁ」
 この一年、修練と称して行われてきたことの厳しさを思い返し、二人が溜め息をつく。
 だがそれは主に次郎五郎に対してであり、九十朗に被害は出ていないため、兄にとっては気分はやや楽だ。
「でも、旅行ってどこだ? ここから簡単に行けるところっていうと……。またフロリナとかか?」
 九十朗が手近なリゾート地を挙げる。
 ビクトリアの街は、既に全て巡った。次郎五郎の負傷で今は動ける時期ではないし、九十朗はそれに全く不満はない。だがどうせ出かけるなら、実益を兼ねてまだ行ったことのないところへ行きたい気もする。
「いや。ちょっと前に噂が流れてきてたろ。ビクトリアの沖合いに、二百年ぐらい前に沈んだ船型の都市があって、それが引き上げられたって」
「あー……。何か聞いたような気がするな」
 その頃彼らはばたばたしていて、本当に小耳に挟んだ程度だったが。
「かなり整備も進んで、一般公開も始まってるらしいんだ。あの辺なら、モンスターも強くないし行ってみろって」
 確かに危険はなさそうだ。
「お前の仕事が空いたら行ってみようか」
 穏便に結論づけた兄に、胸を張る。
「先に延ばせないような仕事は、一つもないぜ」



 その街の名は、ノーチラス。
 それは厳密には、引き上げられた潜水艇の名前である。
 周辺の地形は浅い海に小さな島々が散りばめられている形で、むしろこんなところでよく潜水艇が航行できたものだと感心する。
 ただでさえ狭い土地には、狭い道路しか造られないものだ。街の中はそれでも観光に来た人々が溢れている。
 兄弟もそれに外れることなく、興味深げに周囲を見回していた。
 注意が散漫だった次郎五郎が、死角だった左側を通ろうとした人間にぶつかる。
「あ、失礼……」
 謝罪を口にしかけたところで、相手に突然胸倉を掴み上げられた。
「どこ見て歩いてんだ、てめぇ! 骨が折れたじゃねぇか、あぁ!?」
 いや折れてたらそこまで力強く他人を掴めないから。
 と反射的に口に出さなくなっただけ、自分も大人になったなぁ、と次郎五郎が感慨に耽る。
 その顔を睨みつけていた相手が、ふと訝しそうな表情を浮かべた。
「お前、どっかで……」
「兄貴に何してくれとんじゃ、ワレェ!」
 怒声と共に、相手の顔面に突如拳が炸裂する。
 金属音と共に数歩よろめいた男との間に、素早く黒髪の少年が入りこんだ。
「大丈夫か、兄貴!」
「あー……。とりあえずそこまで本気でキレなくてもいいから。な」
「ここでキレないでいつキレるんだよ!」
 次郎五郎を気遣いながらも、九十朗の視線は相手から離れない。
 旅行に来ているとはいえ、勿論二人とも丸腰ではない。腰に佩いている剣の他に、九十朗は全身鎧を身につけ、手には籠手もつけている。実際、あれで直接顔面を殴りつけていては、相手は重傷だろう。
 だが。
「いい度胸じゃねぇか!」
 吐き捨てるように喚きながら顔を上げた男は、一見無傷だった。手に、次郎五郎の胸倉を掴んでいたときにはなかった銃を持っている。あれで、九十朗の一撃を防いだのか。
 相手は、くたびれたTシャツにジーンズ、デニムの上着を着ている。まだ若い。二十歳になってさほど間はないだろう。
 まともに睨みあった三人の間に、また微妙な空気が生まれる。
 なんとなく、相手に覚えがあるような気が、……。
「何をやっている! 騒ぎを起こすなと云っただろう!」
 その均衡を、人ごみの中からの怒声が破った。
「アニキ! だけど……」
「いいからそれをしまえ!」
 云い返しかけた男が、一つ舌打ちをして手にした銃を懐へしまう。
 その背後から姿を見せたのは、まだ若い男だ。もう一人よりも幾らか歳上という程度だろう。細いストライプのスーツを着てネクタイまで締めているが、その雰囲気はどう見ても善良な一般市民のものではない。
 騒ぎを収めようとしたことで、周囲を取り巻いていた野次馬から罵声が上がる。ここは港街でもあり、気性の荒い人間が揃っている。しかし鋭くそちらを一瞥しただけで、スーツの男はそれを抑えこんだ。
 改めて視線を交わした四人が、一斉に息を飲む。
「あああああああああああああっ!?」
 驚愕の叫びに、周囲が再び注目する。
「お前ら……っ!」
「ああこれはこれはお久しぶりですねお二人ともお元気でしたか積もる話もあるでしょうからちょっと場所を変えてゆっくりしましょうか奢りますよ勿論!」
 九十朗とジーンズの男が声を上げたところを、スーツの男が遮る。兄弟の手を強引に取ると、大股でその場を歩き去った。


「……積もる話とかあるのか?」
「オレはねぇよ」
「ちゃんと奢ってるんですから、ごちゃごちゃ云うのは止めて下さい」
 憮然として、九十朗とジーンズの男がぼやく。スーツの男は、眉間に小さく皺を寄せて咎めた。
 あれから五分ほど急ぎ足で歩いた辺りで、ようやく彼らは足を止めた。
 だが、昼時だったせいか、周囲の店はどこも満員だ。何とか隣りあった二人がけの席を二つ確保できただけでも上々だろう。
「で、今度はどんな悪巧みをしてるんだ?」
 ちょっと面白そうに、次郎五郎が尋ねる。
「悪巧みをしたことなんて一度もありませんよ。人聞きの悪い」
 涼しい顔で、相手はそう返してきた。
 彼らは、ジパングに本社を置く『火狸金融』の社員だ。金融、と銘打ってはいるが、その実、ありとあらゆる犯罪行為を行う組織である。
 その現場に幾度か立ち会ったことのある兄弟は、意味ありげにそれを流した。
 一方、ジーンズの男は無遠慮に前に座る次郎五郎を眺めている。
「なあ、あんた。それ、どうしたんだ?」
 やがて、額から左頬までを覆う包帯を指差して、単純に訊く。
 瞬間、九十朗が立上りかけた。
 その腕を素早く次郎五郎が掴む。
「座れ、九十朗」
「でも、次郎……!」
「座れ。俺たちが、何故ここに来たかを考えろ」
 その言葉に、九十朗がきょとんとする。当面の意識が逸れたのか、手を軽く引くと大人しく腰を下ろした。単純さが彼のいいところだ。
「何をしに来たんですか?」
「秘密だよ。あと、これは……」
 スーツの男の問いかけを軽くはぐらかすと、体重を椅子の背にかけた。
「まあ、一年ぐらい前にちょっとヘマをしただけだ」
「ふぅん。やっぱり素人だな」
 もう興味を失ったように、ジーンズの男が返す。
 ……マンジが、兄弟をここへ送り出した理由。
 ペリオンにおいては、戦いで負傷した人間はある程度敬われる。常に先陣を切る戦士たちは、それがいつ我が身に降りかかってくる危険性があるかを熟知しているからだ。
 だが、他の地域ではそうはいかない。
 冷たい目で見られることも、揶揄されることもあるだろう。
 それにいちいち反応していてはやっていけない。
 軽くいなす程度のことができないで、また旅に出るのは無理だ。
 そもそも、他人は当事者ほど気にするわけでもないものだし。
 ふいに、九十朗がスーツの男に顔を寄せた。
「なぁ、あんたらの会社、金融ってことは金を貸してくれるんだよな?」
 小声で訊かれた言葉に、薄く笑う。
「ええ、お貸ししますよ。いかほどご入り用ですか?」
 黒髪の少年は、更に声を潜める。その金額を耳にして、男は眉を寄せた。
「それは……ちょっと金額が高すぎますね。お貸しできないことはないですが、確実に貴方は一生奴隷労働でもしないと返済できないですよ」
「奴隷労働すれば、貸してくれるのか?」
 問い返す九十朗の眼は真剣だ。
 男が溜め息をつく。
「奴隷労働しなくては返せない相手に貸すわけがないじゃないですか。ちょっとは考えてください」
「何だよ、回りくどいな!」
 嫌みにむっとして、つい声が大きくなる。はっとして、横目で隣の席を伺った。
 しかし、いつの間にか彼らの連れの姿は目の前から消えていた。


「出てきてよかったのか?」
「あー? 平気平気。どうせアニキはしばらく一人で仕事だったから、オレは今日一杯は好きにしててよかったんだ。お前らと会わなきゃ、まだその辺をふらふらしてたさ」
 ジーンズの男が、軽く肩を竦める。
 スーツの男と九十朗が何やらこそこそと話し始めた辺りで、退屈そうな顔をしていたこの男は半ば強引に次郎五郎を外に連れ出した。
「それとも弟が心配か? いい歳して兄弟べったりでもねぇだろ」
 揶揄するように言われたが、次郎五郎はそれを困ったような笑顔を浮かべただけで流した。
 心配する、というなら、それは今は自分の役割ではない。
「ま、いいや。行こうぜ。俺、一年ぐらい前にフロリナから異動になっちまったから、海見んの久しぶりなんだ」
 ぐい、と手首を引いて喧騒の中を進み始める。おそらく、その異動には兄弟が多分に関わっていたと思われるが、男は全く気にした様子もなかった。そんなことはすっかり忘れているのかもしれない。
「お前、海で泳いだことってあるか?」
「今までに海に投げこまれるようなヘマをしたことはないよ」
 やんわりと答えるのに、きょとんと見返される。
「回りくどい言い方するんだな……。潜水艇の動力室じゃ、イルカと一緒に泳げるらしいぜ。行ってみねぇ?」
「俺は泳がないけど、それでもいいなら」
「回りくどい!」
 一言で断じて、男は笑いながら先を歩いた。


 動力室は、まるで巨大な水槽だった。
 足場といえば扉を開けた先にある僅かな面積のテラスだけで、そのすぐ下まで海水が湛えられているのだ。透明な水の中には幾つか淡く光るクリスタルが設置されていて、数頭のイルカがその周囲を踊るように泳いでいた。
 感心しながら見下ろす次郎五郎をよそに、男はさっさと上半身の衣類を脱ぎ捨てている。
「本当に泳がないのか?」
「俺のことに気を遣わないでくれ」
 軽く手を振って断る。男は服の下に水着を着た状態でここに来ていた。早く泳ぎたいのだろう、肩を竦めて、彼は慣れた動作で飛びこんだ。
 楽しそうにすいすいと泳ぐ姿を、感心しつつ眺める。
 十数分ほどそうしていただろうか、男がこちらへ戻ってきた。引っ張り上げて欲しいのか、片手をテラスにかけ、片手を次郎五郎へ伸ばしてくる。
「もういいのか?」
 尋ねながら、軽い気持ちで手を取った。
 濡れた前髪の下で、男がにやりと笑う。
 反射的に手を離そうとする前に、思い切り引き込まれた。水音が聞こえると同時、上下の感覚を失う。

 −−言うことをきかないと海に放りこむぞ、ちび−−

 根元的な恐怖が少年を襲う。
 恐慌に駆られ、叫び出しそうになった時、掴まれたままだった腕が引っ張られた。顔が水面へと浮上して、大きく呼吸する。
 まだにやにやと笑ったままだった男と視線があった。
「爽快だろ?」
「…………あんたなぁ……」
 憮然としたまま背を向け、強引にテラスへとよじ登った。濡れ鼠になった衣に溜め息をつく。
 とりあえず男のTシャツを手にすると、無造作に長い髪の毛の水気を拭った。
「おいこらお前!」
 慌てて戻ってくる男を冷たく見下ろす。
「安心しろ、俺も鬼じゃない。残りの服と銃をうっかり蹴飛ばしたりはしないさ。今は」
「……判った、悪かったよ」
 軽く両手を上げて謝ってくるので、許してやることにする。
 もう一度溜め息をついたところで、次郎五郎は盛大にくしゃみをした。


「……大丈夫か?」
「ん……」
 食堂のテーブルに、次郎五郎は突っ伏していた。別に酔い潰れているわけではない。
 先ほどの詫びに、と軽食を奢られていたのだが、どうにも身体がだるいのだ。
 前髪を掻き上げられかけて、びく、と身体が震える。だが動きが鈍いせいか逃げることはできず、そのまま額に手を当てられた。
「ちょっと熱っぽいな……。悪ぃ」
 眉を寄せて、また謝られる。そっと手を外して、次郎五郎は軽く頭を振った。
「あれのせいだけじゃないと思う。俺はここ一年ほど、体調がよくなかったから。ここへ来るまでにもちょっと無理をしてたんだ」
 疲れが出てしまったのだろう。この、ほんの二日ほどの旅程で体力が保たなくなるとは、思った以上に回復していない。
「弟呼んで来た方がいいか?」
「そうだな……」
 あまり集中して物事を考えられない。熱でぼうっとした頭を、何とか律そうとする。
「……何をやってるんだ?」
 呆れたような声が降ってきて、男は顔を上げた。



 次郎五郎とTシャツの男が姿を消したのを知って、九十朗は目の色を変えて店を飛び出した。
 街路で周囲を見回しているところを、会計を済ませたスーツの男がゆっくりと出てくる。
「相手は子供じゃないんですから、何を心配してるんですか」
「うるさいな! 次郎は今、調子がよくないんだよ!」
「でしょうね。どうも顔色が悪いように見えました」
 さらりと同意されて、言葉を失う。
 そんなこと、自分は気づいてもいなかった。
「彼が大丈夫だと振る舞っているのだから、そう扱えばいいのですよ。それで倒れたとしても、自業自得です」
「お前……!」
 激昂しかけるのを、まあご家族ではそうもいかないでしょうが、と呟いて制する。
「さて、私はそろそろ仕事があるので失礼しますね」
「お前の連れは放っておいていいのか?」
 苛々と尋ねるのに、僅かに驚いたような視線が向けられた。
「彼は自分の仕事を弁えてますからね。まあ、貴方のお兄さんも彼と一緒なのであれば、さほど心配することもないと思いますよ。……貴方がたが我々の仕事の邪魔をしないうちは」
 過去のいざこざをこちらは忘れていないのか、やや眉を寄せてそう告げられる。
 では、と背を向けて歩み去る相手に、九十朗は八つ当たり気味に毒づいた。



 潜水艇の艦橋に通されて、男はうやうやしく会釈をした。
「お忙しいところお時間を頂けたことに感謝します、レディ・カイリン」
 艦長席に座る、若き女海賊は苦笑したようだった。
「レディなんて柄じゃないよ。艦長でいい」
 そして、面白そうな顔で男を見下ろす。
「仕事の話だって?」
「ええ、カイリン艦長。この潜水艇が引き上げられたことで、こちらの街は新たに海賊の本拠地となられている。当然、良質の銃が大量に必要になることでしょう。……我々火狸金融は、そちらの方にも少々顔が利きますので、お役に立てるのではないかと」
「確かに、武器の質は大事だね。でも、本当に良質かどうか、どうして判る? 大量に仕入れておいて暴発したなんて冗談にもならないよ」
 食いつきは悪くない。男は、礼儀正しい笑みを浮かべた。
「もしよろしければ、うちの者がデモンストレーションをお見せ致します。現在流通しているものとは段違いの威力と精度をご覧ください」
 つい数分前、艦内で見かけた相手を確保できたのは幸運だった。あれは、充分に餌として利用できるだろう。


「あんたに伝言を頼まれたんだけど」
 急ぎ足で街を歩き回る九十朗に、一人の男が声をかけてきた。明らかに船員風の男に半ば警戒しながら、話を聞いた。
「……何だとぉおおおおおっ!?」
 次の瞬間、少年は凄まじい勢いで相手に詰め寄っていた。
「お、俺は何にも知らないよ! 頼まれただけだって!」
 船員が涙目なのは、九十朗が大剣の柄に手を置いているからだろう。
「よし、今すぐそいつのところに連れて行け。でないとこの場でお前の胴体を二つに割ってやるぜ」
 ぎりぎりと歯を食いしばりながら、宣言する。青ざめた顔で、船員は先に立って歩きだした。

 数分後、辿り着いたのは巨大な潜水艇の前だった。油断なく周囲を見回す九十朗に、頭上から呼びかけられる。
「遅かったじゃねぇか。何をぐずぐずしてたんだ?」
 見上げた先は、潜水艇の甲板だった。Tシャツにデニムの上着を着た男が、一人で立っている。
「次郎はどこだ!」
「知りたきゃとっとと上がってこいよ。そこで怖じ気づいていたって、兄貴は帰ってこないぜ?」
 あからさまな挑発にかっとなって、九十朗が跳ね橋へと向かう。その手は、既に大剣を抜いていた。案内してきた船員は、その隙に素早く姿を消している。
 潜水艇の乗船口を塞ぐように、男が一人立っている。浅黒い肌の大男だ。両目に巻かれた白い包帯が酷く目立つ。
「俺は副艦長のムラトだ。案内しよう」
 そう告げると、踵を返す。おそらくは盲目なのだろうが、慣れているのか、その歩みに躊躇いはない。
 少しばかり毒気を抜かれ、九十朗は静かにその後についていった。
 壁に設置された梯子の横で足を止めた。
「ここを上がっていけば、甲板に出る。一番上だ、迷うことはない」
「……ありがとう」
 小さく返された礼にちょっと驚いたのか、僅かに雰囲気が柔らかくなる。囁くようにつけ加えた。
「気持ちは判るが、船は壊さないでくれよ」
「それはあいつに言ってくれよ」
 流石に安請け合いできなくて、そう返す。
 剣を持ったまま進むことはできない。鞘へ戻すと、梯子へ手をかける。
 数階分を登った先で、行く手を阻む重い蓋を押し開ける。午後の太陽の光が眼を灼いた。
 九十朗をここまで呼び出した男は、十数メートル先に立っていた。一人だ。
「次郎はどこだ? 無事か?」
「全く兄貴兄貴兄貴とうるせぇ野郎だな。どれだけブラコンだ」
 嘲るような言葉には、さほど腹は立たない。そんなことは、一年前にエリニアで散々からかわれていた。
「あいつの居所を知りたきゃ、腕ずくで聞き出してみろよ。言っておくが、長引いたら生命の保証はしないぜ。あいつもお前もな」
 瞬間、躊躇わず腰の剣を抜き放った。
 しかし、構える前に轟音と共に身体に衝撃を受ける。
 男が、硝煙を上げる銃を手にしていた。
 だが痛みは感じない。一歩、足を進めると肩に違和感があった。
 全身鎧の留め金が破壊されていたのだ。彼は鎧の上からマントを着ていて、留め金の位置が目視できるわけでもないのに。
 九十朗は危険を全身で察知していたが、それは逃亡という形をとらず、更に足を進めるという行動へ出た。
 相手が危険であるなら、短時間で決着をつける。
 銃声が連続で響く。
 やがて、ごん、と鈍い音がして、鎧が足元へと落下した。
 留め金が引きちぎられたマントが、海風に飛ばされる。
 金属に狙いを定めていて、しかし跳弾の一つも九十朗に傷を負わせていない。それを運がいいと思いこむほど、少年は莫迦ではない。
 理由は判らないが、それは故意にやっていることだ。あのまだ若い男は、相当の腕だった。
 だが、九十朗の歩みは止まらない。革の鎧下姿で、剣の平で胴を庇うように構える。
 まっすぐに狙ったままの銃弾は、全てその剣へ命中する。
 ごく小さな一点を狙って。
 腕に響く衝撃も、腹から数センチ離れたところに撃ちつけられる死も、足を止めることはできない。
 剣が届くまで、あと、ほんの数歩。
 そこまできて、とうとう鋳鉄の大剣すら、銃弾が破壊した。
 長さが半分ほどになった剣を、もう身体を防ごうとする意図すら見せず、無言で九十朗が振りかぶる。
 とん、と軽く男は背後へ避けた。
 短くなった剣は、やたらと軽い。普段なら不可能な速度で手首を翻し、逆の脇腹を狙う。
「うわ!?」
 反射的に、手にした銃でそれを止める。金属が抉れる、嫌な音がした。
「危ねぇな……」
 小さく呟く言葉を無視する。
「次郎は、どこだ」
 低く尋ねた言葉に、男は不吉な笑みを浮かべた。
「う・み・の・そ・こ。海の底、だよ」
 兄弟に共通する、幼少期の恐怖が一瞬でこみあげる。
「うぁああああああああ!」
 大きく腕を振るのをひょい、と避ける。
 次の一発が、九十朗の脛あてに命中した。
 湾曲した甲板の上で、少年が足を滑らせる。
 バランスを崩した九十朗は、そのまま下方の海へと落下していく。
 憎悪と恐怖に見開かれた眼を、平然と男は見届けた。
 水音が響くのを確認して、男はくるりと向きを変える。
 そして甲板の上にそびえ立つ艦橋に向かい、軽く頭を下げた。

 潜水艇の船倉で、補強作業に取り組んでいた男が、ふいに顔を上げる。
 鈍い振動が、横手の壁から感じられるのだ。
 探るように近づきかけたその先で、壁から細く水漏れをしていた個所から、盛大に水が噴き出した。
 その奥から、強引に壁を素手で破壊しながら人影が現れる。
「……ぶっ殺してやる、あの野郎ぉおおおおお!」
 怒声を上げると、少年は走り去っていった。
 呆れた顔で、男は惨状を眺めている。
「船を壊すのはくれぐれも勘弁してくれって頼んでおいたんだけどな……」
 頭を小さく振って、彼は修理班を声高に呼びつけた。



 その部屋は、やたらと暗かった。窓はなく、枕元に置かれた小さなオイルランプだけがベッドに横になっている人間の顔を照らし出している。
 一人の少年が、眉を寄せて椅子に腰掛けていた。
 微かな音を立てて、扉が開かれる。
「……様子はどうだ?」
 洗面器に冷水を満たして立っていたのは、Tシャツの男だった。つい先ほど彼と死闘を繰り広げていた九十朗が、露骨に不機嫌な顔でそれを見上げる。
「いいわけないだろ! 熱がかなり高いんだぞ! 声をかけても起きないし!」
「いや寝かしておいてやれよ」
 流石に小声で非難してくるのを、さらりと咎める。サイドテーブルの上に、洗面器を置いた。
 ここは船員が居住する寝室だ。この辺りは既に水の中だから、窓は必要最小限しか作られない。航海中は船体が安定することが少ないから、家具は全て壁や床に固定されている。椅子とサイドテーブルとは、わざわざ運びこんで貰ったものだった。
「しかも包帯を外してるじゃないか……」
 ぶつぶつと九十朗が更に文句を言う。兄が露わにするのを嫌がる傷痕が、今は晒け出されているのだ。
「包帯巻いたまま頭を冷やせないだろ。莫迦か?」
 呆れたようにツッこまれる。新しく冷やしたタオルを、額の上のものと取り替えた。
 次郎五郎の額から左眼、頬にかけての醜い傷痕に、しかし男は顔の筋肉一つ動かさない。
「女じゃあるまいし、お前らは気にしすぎだ。うちの幹部連中には、もっと凄まじい人たちがいるぜ。それに、ここの副艦長だって、両目を失くしてるだろ」
 下を見りゃきりがないんだよ、と続けて、男は無意味に胸を張った。
 発言と意図とがちょっとずれている気がしたが、とりあえずそれについては九十朗は放置することにした。そんなことよりも兄の方が心配だ。
 気持ちは、ありがたい。


 街のホテルで、スーツの男は物思いに耽っていた。
 既に陽は沈んでいる。夜に聞く波の音は、相変わらずやたらともの寂しい。
 ノックの音がして、部下が部屋に入ってくる。
「ああ、ご苦労。あの兄弟の様子はどうだ?」
「兄の方は、まだ熱が下がりません。弟は、とりあえず事情は飲みこめたみたいです。乗組員たちが気をつけてくれてるので、大丈夫かと」
 頷きながら、そうか、と呟く。
 午後に、潜水艇の食堂で部下と次郎五郎に出くわした時、銀髪の少年は酷く具合が悪そうだった。
 潜水艇の乗組員に無理を言い、彼の世話を頼んだのは、勿論慈善事業ではない。
 銃器を売りこむために、ある程度の実演は必要だと最初から思っていた。だが、動かない的へ当てさせるだけでは、それは充分な効果を得られない。
 弟を煽り、本気で対峙させておいて、かつ銃の性能をアピールする。部下の腕前なら上手くやれると踏んだのだ。そして一部始終を艦橋から見ていたカイリンは、火狸金融との取引を全面的に承諾した。
 これはかなりの手柄になる。男は心底兄弟に感謝していた。
「もう少し、何かお礼を渡すべきかな……。逆恨みされたい相手でもないし」
 小さく呟く。それについて、部下は口を出してこなかった。
 尤も、反対している訳ではないだろう。最初に無理矢理水に引き摺りこんだことで次郎五郎が発熱したのではないかと、この男は内心まだ気にしている。
 意外と人のいい二人であった。
 スーツの男が窓の外に視線を向けた。小さな島々が、月明かりにぼんやりと浮かび上がっている。黒々とした海が、その合間を埋めていた。
「……お前は、この土地の歴史を知っているか?」
「いやオレ、頭悪いんで」
 誤魔化すように笑うのに、頭を振る。
「歴史というより、言い伝えに近いな。二百年少し前、ここはビクトリア大陸と陸続きだった。他の都市よりも栄え、あのノーチラス号は当時の繁栄の結晶だったらしい。……だが、この地を災厄が襲った」
 その災厄の間、大地は陥没と隆起を繰り返し、都市の中に海水が流れこんだ。荒れ狂うそれは都市の全てを破壊し尽くし、やがて今のような島々の形に落ち着いたのだ。そしてノーチラス号はついこの間まで海底に沈んでいた。
「災厄に見舞われる前、ここは格闘家たちの本拠地だった。格闘家には、二種類いた。自由市民と、格闘奴隷だ」
 都市の滅亡と共に、その制度は崩壊した。そう、思われている。
 だが、奴隷制度は正式に廃止された訳ではない。都市が再生され、禁止する法律ができてない以上、制度は継続していると見てもいい。
 男がここへ来たのは、表向きは銃器の売りこみだ。だが、もう一つ、奴隷売買についての交渉も任されていた。
 だが、その話をカイリンに切り出してはいない。彼女はそれなりの道理と正義感を持っている。もしもそんな話を切り出したら、表向きの取引すら拒絶されるだろう。
 しかし、今日の午前中、街の中を聞きこみしていて、男は重要な情報を得ていた。
 カイリンと対立しているという、『暗黒の魔法使い』。
 それが一体どんなものなのか、はっきりと彼に告げるものはいなかった。だが、どうやら二百年前の災厄にも関わっているらしい。
 ならば、奴隷制度については、あちらに交渉した方がいいだろう。
 手がかりはないが、諦めがよくては、組織でのし上がれない。彼は不屈の精神の持ち主でもあった。




 兄弟が旅立って、一週間。帰宅の報告にきた二人を、珍しく呆れた感情を表に出して、マンジは迎えた。
「……どうした、その格好は」
 九十朗の装備は一新されていた。全身鎧は、ペリオンを立つ前よりも明らかに性能が上のものだし、それにあつらえたようなサーコートを羽織っている。腰に佩いていた大剣はなく、代わりに背中に新しい剣を背負っていた。
 次郎五郎の服装はさほど変わっていないが、顔に巻かれていた包帯がなくなっている。今は額から左頬にかけての広い面積を、黒い革の眼帯が覆っていた。銀で細かい模様がつけられていて、見るからに高級品だ。
「いやぁ、昔の知り合いに会ったんですが、何かお礼とか言って色々貰ってしまって」
 屈託のない笑みを浮かべて、さらりと九十朗が説明する。こんな時、彼の人当たりのよさは有効だ。次郎五郎といえば、僅かにばつが悪そうに視線を逸らせていた。
「それより、マンジさん。旅を勧めて頂いて、ありがとうございました」
 僅かに顔を引き締めて、兄弟が軽く頭を下げる。
 彼らが拘っていたことに対する、世間の反応。下世話な興味も、一顧だにしない冷淡さも、親身になってくれる暖かさも、彼らは直面した。
「おれは子守からしばらく解放されたかっただけだがな」
 マンジが素知らぬ風にうそぶく。兄弟が顔を見合わせて、苦笑した。
「それよりも次郎五郎。お前、剣に錆が浮きかけているぞ。剣士にとって剣は魂も同様だと言っただろう」
 いつも通り、厳しい口調で叱られ始めて、慌てて次郎五郎は長剣を鞘から抜いた。
「……帰ってきたなぁ」
 九十朗のしみじみとした呟きが、ペリオンの静かな空気にまぎれた。

 
2011/02/13 マキッシュ