Here We Go!!
狼の領域→

 夜の雪山は、贔屓目に言っても危険だ。
 方角によっては、完全に山の陰に入って何キロも暗闇が続く。腰に下げたカンテラでかろうじて各自の足元だけは照らしているが、どうしても完全ではない。
 しかも、それを目印にモンスターが寄ってくる。
 三人は、ひたすら足を進めた。先頭を九十朗、四郎を挟んで最後に次郎五郎。前から攻撃されても、後ろから襲われても、何とか対処できる形だ。
 メイプルアイランドからビクトリアへ渡る間に榊から言い渡された諸注意は、主に四郎を戦闘に参加させないように、というものが大部分だった。四郎はそれを直接聞いてはいなかったが、長いつきあいの[羽根]たちが何を思うかは大体判っている。おそらくはそれに配慮しての隊列なのだろう、と察して、男が苦笑する。
 夜半を回った辺りで、少し休憩を取ることにした。
 道の端に自生する茂みに背中を預け、少しでも風を防ぐ。荷物の中から干し肉を取り出し、固い革のようなそれを噛み切った。
「ワシらが城について、調査して、何も手がかりがなかったとしてエルナスに戻るまでが最短で二日。とりあえず、街におるやつらには三日待てと言っといた。三日でワシらが帰ってこんかったら、城に戻ってもええ、と」
 ここまで来て初めて、四郎が街での話し合いの結果を教えてくる。
「三日ですか……」
「城がまだ大量の敵に囲まれとって、三人で太刀打ちできへんかったらそいつらが来るのを待つしかないやろうけど。まさか、ゾンビ共が城を占拠してワシらが奪還するのに備えとるとかないしなぁ」
 あのモンスターにそこまでの知能はない。風来坊錬金術師がついていてもそれは無理だろう。
 彼らがエルナスの城塞を出てから、四日だ。街へ待避してきた兵士たちの話では、もうその日のうちに敗色が濃厚だったという。
 重苦しい予感に胸を塞がれながら、三人は立ち上がった。先はまだ長い。

 経過した時間だけで考えれば、午前中には城に着いていてもおかしくはない。だが、勿論そんなことはなく、夜が明けても道程の半分ほどを進んだ程度だった。
 それでも、朝になってから街を出発するよりも早く着く筈だ。
 ほの明るくなってきた山道を進みながら、そう考える。
 快晴であれば、周囲の雪に陽光が反射して雪目になりやすい。が、幸いこの季節は曇天が続くことが多く、この日もどんよりとした雲が空を覆っていた。
 また一つ、吊り橋を渡ろうとしたところで、不穏な音に気づいて彼らは足を止めた。
 微かに、しかし長く響き渡る、狼の吠え声。
 眉を寄せ、四郎が九十朗を押し退けた。足を早めて進んで行くために、必要以上に吊り橋が揺れる。
 慌てて、兄弟が後を追った。
 更に縄梯子を伝い、絶壁を登っていく。以前、養父のいる城塞まで行くためにここを通った時には、もう少し上であの声に遭遇した覚えがあった。
 四郎が、珍しく息を荒げている。
 また、遠吠えが響く。心臓を鷲掴みにされそうな。

 頭上から、獣が暴れるような物音が聞こえてきた。低い唸り声が轟く。
 見上げる視線の先で、人のかたちをしたものが谷の上空へと放り投げられた。そのまま、ざぁ、と灰と化して風に散る。
 四郎が上の道へとよじ登った。ざ、と雪を蹴立てて走り出す。
「……ライカン!」
 叫びが、吹き下ろす風にかき消される。
 続いて登ってきた九十朗と次郎五郎が見たのは、以前、人狼に囲まれた空き地だった。
 ただ、当時その場を占めていたワーウルフの姿は今はない。荒らされ、土と混じって汚れた雪には、そこここに赤黒く変色した血痕が散っている。空き地の先、また細い道へと続いている辺りにゆらゆらとアンデッドの群れが揺れていた。
 そして、彼らとアンデッドの間には、こちらに背を向けて一頭の白い毛並みの人狼が立ち塞がっていた。
「次郎五郎! 九十朗!」
 背後から追ってきた息子たちの名を呼ぶ。
「はい!」
 短く応じて、養父を追い越した。自らに迫り、そして横をすり抜ける戦士たちに、ライカンスロープは身動き一つしない。
 九十朗が、一番手前のゾンビに近づいたところで急停止した。僅かに膝を撓め、両手で背に負った大剣を抜き放ち、そのまま相手に叩きつける。
 次郎五郎は群れのただ中に入りこむまでスピードを落とさなかった。一瞬で太刀を抜き、片足を軸にぐるん、と回転する。
 二人の周囲にいたゾンビたちが、次々に灰に変わった。
 息を白く染めて、四郎がライカンへと近づく。
 黒衣の男は、人としては随分と長身ではあるが、それでもライカンスロープは遙かに巨大だ。喉を低く鳴らしながら、身を屈めてくる。
 その、ところどころ血と泥に固まった毛皮に、四郎が両腕を回す。
「……すまん。お前らの忠義に感謝する」
 くぐもった声に、獣が小さく鼻を鳴らした。
「もうええ。ちょい休め。ここは、ワシらが片づける」
 身体を離し、ぽん、と丸太のような腕を叩く。のそり、と人狼は森の方へと姿を消した。
 それを見送ってから、声を張り上げる。
「次郎五郎! ちょお戻れ!」
 その言葉に、すぐに九十朗が兄のフォローに回った。周囲の敵をとりあえず遠ざける。小走りに、次郎五郎が四郎の元へ戻ってくる。
「向こうの出口に近い、ちょっと狭まった場所があるやろ。大きな岩がせり出しとるとこや」
「はい」
「あそこまで奴らを片づけられたら、一旦お前の技で足止め出来へんか? 氷の壁とかそんな感じで」
「簡単ですよ」
 こともなげに次郎五郎が頷く。
「よし。やってくれ」
 軽く背中を押され、再び戦場へと戻っていく。大剣の届かない程度の距離を保って、弟に近づいた。
「四郎様、何て?」
 視線は敵から離さずに、九十朗が尋ねる。
「一度足止めをするように、とのことだ。俺が合図したら、何を置いても二メートルほど退がれ」
「えー。俺、しばらく動いてなくて色々溜まってるんだけど」
「俺に文句を言うな」
 暗に、昨夜一人で風来坊錬金術師とやり合ったことを咎められて、短く返す。
 ゾンビは、一対一ではさほど大した相手ではない。ここ十日ほどの間に、何度か闘って慣れてもいる。
 だが、流石に囲まれては競り負ける。彼らは一体ずつ確実に倒していく方法を取った。
 やがて、四郎が指示した辺りまで辿り着く。
「退がれ!」
 鋭く叫んだ声に、今まで剣を交えていた相手を勢いよく蹴り飛ばすと、九十朗は踵を返した。数歩後退して、また向き直る。
 その間に次郎五郎は太刀を逆手に握り、切っ先で半ば凍りついた雪を抉るように一本の線を描いた。その軌跡のままに、無数の氷柱が大地から天を貫くように伸びる。
 ゾンビの顎の辺りまでの高さで、氷の壁が出来上がる。向こう側で、アンデッドたちが呪うような呻き声を上げた。
 全く気にもかけず、次郎五郎が体勢を整える。刀を鞘に納め、ふぅ、と大きく息をついたところで背後に養父が立った。
「おぅ、二人ともお疲れ。とりあえず、飯でも食うか」
「……呑気にもほどがありませんか」
 短く返す。振り向くと、空き地の真ん中辺りに焚き火が燃えていた。
「俺たちが闘ってる間、何やってたんですか」
 九十朗も、流石に呆れた声音を隠せない。
「そりゃあっちの森に薪取りに行ってやな。雪積もっとって湿ってるさかい、水分をある程度『壊し』てから組み上げて火を」
「いやそんな詳細に聞きたい訳じゃないですから」
 冷淡に突っこまれるが、四郎は先に踵を返す。
「ええから。作戦会議や」

 そう言われると反論もできず、二人はその後に続いて焚き火の傍へ腰を下ろした。確かに暖かく、内心ほっとしもしたが、十数メートル離れたところにはゾンビの大群が低く呻き声を上げている。どうにも落ち着かない。
「多分、ここまで降りてきたゾンビは、この間までうちの城を包囲しとった奴らやろう。けど、あの様子を見ると、風来坊錬金術師は多分指揮を執ってへん。どうや? 次郎」
「あ、はい。刀は反応していません」
 全員の視線が、次郎五郎が腰に帯びた刀へ向かう。それは静かに鞘へ収まっていた。
「ん。ちゅうことは、烏合の衆や。そんなに厳しい相手でもない。数が多いかもしれへんけど、ある程度はライカンも減らしとってくれとるし。ただ、それでも流石に囲まれた場合は厄介や」
 で、と続けて、声を低めた。別にゾンビに聞かれる心配はないのだが。
「あの壁に、奴らが一体ぐらい通れる穴を二カ所、空ける。こっちは三人や。囲まれることはないし、出てくる奴に交代で対処しても、一人ずつは休めるやろ」
「三人……って、四郎様も闘われるおつもりですか?」
 驚いたように、次郎五郎が声を上げた。
「当たり前やろ。お前らが周りからどういうこと聞かされとったか知らんけど、オルビスまでとそれ以降とは、事情が違う。今、ワシは、ヘラーがワシ専用に作った銃を持っとる」
 ぽん、とコートの上から胸を叩く。上着の下、ホルスターにその銃は納まっている。
「それはそうですけど、でも」
「どうせ、[五人目]と対決する時はこれを使うことになる。こいつに慣れとくには、今がええ機会や。敵が向かってくるんは見えとるし、場所も固定できる。初めての時に突発的な事態に対処せなあかんかったら、どんなヘマするか判らんからな」
 そう説明されて、言葉を無くす。四郎の言うことは、いちいち尤もだった。
「ヤバくなったら、いつでも任せてくださいよ」
「ちょっとばっかり失礼やな。ワシが、一体何百年の間闘い通してきたと思っとんねん」
 鮮やかに笑って、養父は立ち上がった。
「ま、慣れるまでは穴は一カ所にしといて、ワシが一人でやるわ。お前らはそこでのんびりしとけ」
 言い置いて、ふらりと歩き出す。氷の壁から十メートルほど離れた辺りで止まった。ホルスターから拳銃を取り出し、弾倉の中を確認する。
 そして、まっすぐに腕を伸ばした。慎重に狙いをつけて、引き金を絞る。
 轟音を発して放たれた弾丸は、見事に氷の壁を撃ち抜いた。ついでに、その直線上にいた五体程度のゾンビを灰に変える。
「……」
「……」
「……わあ」
 引きつれた沈黙の中、九十朗が小さく呟いた。
 だが、隣にいた仲間が頭を吹っ飛ばされたからといって、モンスターがそれに怯むことはない。すぐさま、空いた空間に新たなゾンビが入りこんでくる。
 今度は様子を見つつ、連射する。『破壊』の力を籠めた度合いによる威力の差と、次弾を発射するスピードの兼ね合いを探るためだ。
 次郎五郎は心配そうにそれをじっと見ていたが、九十朗は数分もすると順応したらしい。ごそごそと荷物を探り始める。
「次郎、何か食う? パンぐらいだったらここで焼けるかな」
「お前は本当にタフだな……」
 半ば呆れたように呟かれて、肩を竦めた。鎧が小さく音を立てる。
「四郎様は大丈夫だろ。これだけ距離があったら、万が一失敗されても俺たちがフォローに間に合わないこともないし」
「聞こえとるで!」
 銃声に負けないような大声で、四郎が咎める。溜め息をついて、次郎五郎が肩の力を抜いた。

 しばらく後、四郎は約束通り氷の壁にもう一つ通路を作った。先陣はどうしてもと言い張って、九十朗が疾る。
 一人残されて、次郎五郎が溜め息をついた。焚き火の傍に転がした倒木の上に座っていたが、太刀を抱くように持ち直し、背を丸めて頬を柄に寄せた。師が普段座す時の姿に似ているが、少し違う。
 自分が安全圏にいてかつ目の前で他者が闘っている、という状況はあまり馴染みがない。どうにも落ち着かないものなんだな、と思いながら、二人の様子を見つめる。
 空気は暖かく、満腹とはいかないまでもそこそこ腹も膨れた。おまけに昨夜は眠っていないし、疲労は溜まっている。数十メートル先で銃を連射している音にすら慣れたのか、次郎五郎はそのうちうとうとしてしまったらしい。
 息苦しさに、無理に意識を浮上させた。霞んだ視界に、灰色の人影が見える。指先が冷え切っている気がしたが、すぐに全身がそうなのだと気づく。じわりとした冷気はすぐに体温に溶ける。雪の上に倒され、身体を抑えこまれ、大きな手で鼻と口を覆われているのだ。
 空気を求めて喘ぐが、奇妙な臭いにむせそうになる。森と、雪と、獣と、血と、生肉の混じった臭いだ。
 手を、押さえつけてくる腕にかけた。ごわりとした感触に、瞬く。
 相手は人間ではなかった。
 巨大な灰色狼だ。

 喉を絞められなくてよかった、と場違いに思う。そんなことをされていたら、おそらくは一瞬で首を折られていただろう。
 片腕を大きく動かしてみるが、それが届く範囲に刀はなかった。
 こうも動きを制限されていると、隠し持っているナイフすら取り出せない。
 一度でいい、武器が振るえさえすれば、何とかこの手から抜け出せるだろうに。
 のしかかられた身体は、膝の下辺りまでを拘束され、足を動かすこともできない。せめて、両腕で引き剥がそうと試みるが、体勢と体重で勝る相手は微動だにしない。
 意識が混濁しそうになるのを、必死で堪える。
 座っていた自分と、闘っている家族の間には焚き火があった。今も規則正しく響く銃声の間に、小さく薪が燃える音は聞こえる。森に引きずりこまれた訳ではない。
 おそらく自分の姿は焚き火の影になっていて彼らからは見えまい。ワーウルフの巨躯は見えるかもしれないが、元々この獣はライカンスロープと共に四郎に協力していた仲だ。不審に思われることはないだろう。
 息が、苦しい。
 じわじわと体温が奪われていく。
 規則正しく銃声が聞こえて。
 指が、相手の毛皮の上を滑る。
 息、が。

 遠くに、獣の吠える声が長く聞こえた。

 遠吠えに、四郎がちらりと視線を森へと流す。
 あれはライカンスロープの声だ。
 先ほど、手負いの獣を森へ戻し、休息を取るように促したのだが、何かあったのだろうか。
 勿論、長くそちらを見ているつもりはなかった。敵との間に距離はあるとはいえ、戦闘中である。視線を外すことが命取りになるのは、至極ありふれたことだ。
 だが、焚き火の向こう側に覗く、蹲るような格好の灰色の毛皮に眉を寄せた。
 むしろ、その場にいるはずの人影が見あたらないことに。
「……次郎?」
 小さく呟く。その声を聞き分けたか、ワーウルフが顔を上げた。
 毛皮のそこここを血に染め、耳も半ばから千切れかけている。四郎とはっきり目が合った次の瞬間、ワーウルフは地面から何かを掬い取った。
 それが黒漆に塗られた刀の鞘であることを目にして、躊躇わず、四郎は銃口を灰色狼へ向けた。
 肩を撃ち抜かれ、悲鳴を上げて刀を取り落とす。その瞬間、見えない場所で誰かが激しく咳きこんだ。
「……何してくれとるんじゃ、ワレェ!」
 次の弾丸が、更に腕に命中する。
「頭上げるんやないで、次郎!」
 連続でワーウルフへ銃弾を叩きこむ。
「四郎様!?」
 銃声がするにも関わらず、氷の壁に空いた隣の穴からぞろりとゾンビが入りこむのを目にして、九十朗が慌てて振り返る。
「悪い、しばらく頼むわ!」
 頼まれたが、背後で繰り広げられている状況が飲みこめない。
 だが、連続して響く銃声の合間に苦しげな咳が聞こえ、反射的に青年は走り出した。
 大剣を携え、血相を変えて視界に走りこんできた九十朗に、慌てて引き絞りかけていた引き金を緩める。
「九十朗っ!?」
 養父の驚愕の声を無視し、焚き火の側面へ回りこんだ。雪の中に倒れ、背を丸めて咳きこむ兄に、血まみれの獣がのしかかっている。
「こ……のっ!」
 渾身の力で、がら空きの胴に大剣を叩きつけた。身を浮かしかけていたこともあって、ぐらりと巨体が揺らぐ。
 そのまま大剣から手を離し、兄の身体を抱えこんだ。ワーウルフの身体の下から引きずり出し、何とか数メートル離れる。
「次郎! 次郎っ!」
 身体を揺すって名前を呼ぶ弟に、片手を上げる。背中が痛いし何よりくらくらするので、揺らされるのは勘弁して欲しい。
 霞む視界の中で、更に銃弾を受けたワーウルフが黒い光に包まれた。そのまま、すっと姿が消える。
 苦虫を噛み潰したような顔で、四郎が近づいた。
「大丈夫か、次郎」
「……はい」
 大きく呼吸して、頷いた。実際、他に外傷はない。
「よし。じゃあ、九十朗。なんでこっちにきた」
「四郎様が俺の立場だったら、来ないで済ませられたんですか?」
 挑発するように言い返す。苛立たしげに、四郎がそれを見下ろした。
「減らず口ばっかり上手くなっとるやんか。お前が衝動で行動したことで、お前も次郎もどれだけ危険やったか判っとるんか? しかも」
 一旦言葉を切り、四郎が三発、銃弾を発射した。よろよろとこちらに近づいてきていたゾンビたちを撃ち抜く。
「奴らを頼むって言うたよなぁ?」
 氷の壁からは、更に数体のゾンビが入りこんできている。
「すみません、四郎様。俺が……」
 しわがれた声で、次郎五郎が割りこむ。
「お前は何も悪ぅないやろ」
「そうだよ」
 なんでこんな時ばっかり気が合うんだろう。
 ちょっと困った心境で、次郎五郎が家族を見上げた。
「ああもう、後でじっくり怒るさかい、早く剣を拾って持ち場へ戻れ」
「でも次郎が……」
「心配いらん。ワシがここにいる」
 片手で追い払うような仕草をされて、ようやく九十朗は立ち上がった。先ほど放り投げた大剣を取って、小走りにゾンビの群れへと向かう。
 その様子を見ながら銃を撃っていた四郎が、雪に埋もれかけていた刀を取ってきた。複雑な表情でそれを次郎五郎に手渡す。
「ありが……、ございます」
 咳きこみかけて、上手く喋れない。
「落ち着いてからでええから、何があったか話してくれ。無理はすんな」
 声に、苛立ちが滲んでいる。おそらく、九十朗のことが原因ではない。
 味方として信頼していたワーウルフに襲われて、動揺しているのだろう。
 休むことはなく、自分が判る限りの状況を説明する。
「……ワシが見た時、ヤツはお前の刀を持ち去ろうとしとった。お前を殺すつもりやったら、一瞬でできた言うんは同感や。多分しばらく騒げんようにしといて、刀だけが欲しかったんちゃうやろうか。[二人目]の[五人目]に対する怒りは、そりゃあもう凄まじかったらしいしな。ワシが死に目に会えへんでよかったて思うた唯一の[五大賢者]や」
「でも、この刀を手に入れるということと、俺を生かしておくということが両立する意味があるんですか?」
 純粋に疑問だったので、尋ねてみる。
「あったんやろう。ワシには判らん。……でも、あってよかったとは思っとる」
 苦々しい顔で、そう告げた。
「今にして思えば、先刻ここに着いた時にも、ライカンだけしかおらへんかった。あの群れには、十以上のワーウルフがおったはずやのに。……ゾンビにやられたんかと思っとったけど、他になんか理由があったんかもしれん」
「……[五人目]の意図だったら、流石に俺が気づくと思うんですが」
 眠りに落ちる前の体勢では、刀を抱えこんでいた。腰に佩いているだけならともかく、その状態で振動すれば判るだろう。
「お前がそこまで寝起きがいいとも思えへんな」
 僅かに笑みを浮かべて茶化された。
「そっちですか」
 むっとしたふりで答える。喉の奥で小さく笑う養父は、ようやくいつもの調子に戻ったようだった。
「それもそれやけど、九十朗がなぁ。あんなに言うこと聞かへんかったっけ」
「あいつは逆境に強いと思ってましたけど、まあ今は非常時も非常時ですからね。ストレスも溜まってるんじゃないんですか。言動に矛盾も出てきてますし」
「矛盾?」
 訝しげな四郎の言葉に、肩を竦める。
「俺には干渉されたくないらしいのに、俺に干渉はしてくるんですよ」
「それは理不尽やな」
 そう言って、楽しげに笑う。
「反抗期ですか?」
「思春期やろ。扱いづらい年頃の息子が二人もおるワシに同情してくれ」
 さりげなくそこは無視して、次郎五郎はゆっくりと立ち上がった。どうやら、動くのに支障はないようだ。
「四郎様は、まだ休憩しなくても大丈夫ですか?」
「ん? まあな」
「じゃあ、九十朗と交代してきます。じっくりと怒ってやってください」
 無理するな、という言葉を背に、小走りに氷の壁へと向かった。全く、程度の差こそあれいつまでも過保護だ。
「交代だ、九十朗」
 声をかけると、驚いたように振り向いた。
「でも次郎……」
「どこか怪我をした訳じゃない。ちゃんと闘えるさ。いいから戻って、早いうちに仲直りしてこいよ」
「いや仲直りって」
 兄の言葉に苦笑する九十朗へ、真顔を向ける。
「謝るつもりがあるんならそれでいいけどな」
「……俺は悪くないよ」
 一瞬で弟が憮然とする。
「だから仲直りって言ってるんだろ。ほらとっとと戻れ」
 追い払うように手を振る。
 首を振り、ぶつぶつと文句を言いながらも九十朗は踵を返した。次郎五郎は壁から身体を出してきたゾンビを見据えて、刀に手をかける。
 数体倒した辺りで、ちらりと視線を背後へ流した。四郎の傍に九十朗が座っている。少なくとも険悪な雰囲気ではない。
 全く世話の焼ける家族だ。
 おそらく、それぞれ全員が思っているであろう言葉を思い浮かべ、次郎五郎は次の敵に斬りかかった。


 三時間ほど経って、ようやくその場に集まっていたアンデッドを全滅させた。
 焚き火に雪をかけ、火を消すとその場を後にする。急げば、陽が落ちるまでには城塞に着けるだろう。
 雪道には、一団からはぐれてしまったらしいゾンビが時々姿を見せた。ごく少数のそれは、勿論三人の敵ではない。
 それ以降は目立った遅れもなく、西日に照らされて彼らは峠に立った。
 厳めしい尖塔が、赤く染まる雲を背に聳え立っていた。

 身を切るように冷たい風が、崩壊した門扉の間で奇妙な音を立てる。あの日、雪を溶かしながら崩れ落ちたそれは、既に氷のように冷たかった。
 無言で、三人は無人の前庭へと入っていく。
 積もった雪は酷く荒れているし、扉や窓は破壊されている。薄暗い城内にも人の気配がない。
 四郎が小さく溜め息をついた。
「よし。とりあえず、地上部分を調べていくか。何があるか判らんから、気は抜くな」
 きっぱりとした指示に、はい、と言葉を返す。感傷に浸っている時間はない。

 結果的に、地上部分に人はいなかった。勿論、モンスターもだ。
 戦闘の形跡は激しいが、略奪はされていない。厨房にはそこそこ無事な食物が残されていて、最低限の荷物で動いていた彼らにはありがたかった。
 謁見の間は外から閂がかけられた上に、どうやら封印の魔法で閉じられているらしい。彼らでは閂をずらすことすらできず、中へ入ることは諦めざるをえなかった。
 そして、彼らは地下へと向かう。
 階段の途中で、金属製の小さな扉が破壊されている。息子たちを先へ行かせ、四郎は一人、そこをくぐった。
 ねばりつくような闇に、カンテラを掲げる。短い階段が続いたあとの細い通路の両脇に、入り口と似たような金属の扉が並んでいた。そのうちの幾つかが、やはり破られている。
 ふらり、とその中へと入りこんだ。黄金色の光に室内の惨状が浮かぶ。
「予想はしとったけどな……。逃がしてやれへんかったし」
 ゾンビの手によって死に追いやられた男の身体の傍へ屈みこむ。しかし、もし彼が無事であったとしても、城塞が無人となっていては餓死は免れなかっただろう。どちらにせよ、責からは逃れえない。
「……なぁ。お前、こんなんでほんまに良かったんか?」
 問いかけには、勿論誰も答えない。
 しばらくの間、男はそこを動かなかった。

 練兵場に足を踏み入れて、ぽかんと口を開けた。既に闇に沈んでいるそこは、次郎五郎と九十朗が持ちこんだカンテラで再奥の壁が照らされている。……いや、壁であった場所が。
「盛大にやってくれたもんやなぁ……」
 石造りの壁が崩壊し、その奥に暗い穴が開いているのを見つめ、呆れたように呟いた。
「四郎様、あとこっちに」
 穴から数メートル離れた場所を示される。そこには、数多くの弓矢や杖、剣などの武器、そして鎧が積み上げられていた。
「死体はないな?」
「ありません」
 練兵場の隅々まで見回った二人が即答する。
「ここまで皆を連れてきて、武装解除した、と。で、殺さへんかったとすると、多分このトンネルの先に連れてったんかな」
 視線を彷徨わせた先で、止める。身を屈め、拾い上げたのは、見覚えのある長い手袋だった。
「三郎太さんの、ですか……?」
 九十朗が掠れた声で尋ねる。
「あいつはあからさまな武装はしてへんからなぁ。しかし、この雪山で手袋外させるとかどんだけ非道やねん」
 眉を寄せる。屋外で、例えば素肌を石壁にでも触れさせれば、たちまち肌は凍りついてしまい、剥がすことが困難になる。
「それか、この先では手袋も必要ないってことか……?」
 小さく呟く。手袋があった辺りを見ていた九十朗が、何かを拾い上げた。
「これ、トゥキの杖ですね」
「そんなのだったか?」
 簡素な、細身の杖を持つ九十朗に、兄が小首を傾げる。
「俺といた時に、普段持ってるのが壊れたんだよ。で、次にこれを使ってた」
「なるほど。トゥキと三郎太が大人しく連れてかれたってことは、多分他の兵士たちも無事やろうな。次郎、九十朗。荷物を厳選したら、今度は穴潜りや」

 日持ちがして、かつ軽い食料を詰めこむ。カンテラの燃料はできるだけ持っていくことにした。
「せやけど、そんなに目的地は遠くないと思うで。五十人がエルナスに行って、残ったのがざっと百五十人。それだけの人数を何日も連れてくとして、ここにあれだけの食料が残ってる訳がない。まさか、ゾンビが物資を持ってついて来とるとか思えんしな」
 四郎がそう説明する。
 そんな話をしていると子供たちの胃が盛大に空腹を主張したため、簡単な食事を作ることになった。二百人を保持できる城塞だ。少なくとも材料だけは心配する必要がない。
 ほぼ皿を空にする辺りで、若い二人は船をこぎ始める。
 時折目を開け、小さく頭を振るが、睡魔は退きそうにない。
 四郎が複雑な表情でそれを見つめていた。


 暖かく、柔らかな感触が心地いい。
 ぼんやりと目を開く。薄明かりの中、彼は天蓋付の寝台に横になっていた。
 慌てて、上体を起こした。広い寝台の中、隣にいた弟が寝返りを打つ。
「……おう。まだ寝ててええで」
 低い声をかけられて、安堵する。視線を向けると、暖炉の前に椅子が置かれていた。背もたれが高く、座っている人間の姿が見えなかったのだ。
 毛足の長い絨毯の上を、裸足で歩く。
「置いていかれたのかと、思いました」
 率直に告げると、養父が小さく笑う。
「先刻起きてきた九十朗もそう言うとったわ。置いていくんやったら、それこそ榊と一緒にしとる。今更、お前らだけを無人の城に放置する意味はないやろ」
「でも、早く三郎太さんたちを救けに行かないと」
 眠ってしまった兄弟を置いてでも四郎が出発したのではないか、と思ったのはそのためだ。だが、男はそれを否定した。
「あのまま進んで、お前らが疲労と空腹で倒れた方がロスがでかい。悪いな。定期的に休息を取らなあかんのやと判ってるつもりなんやけど、ワシにはどうにもぴんとこんさかい。お前らは黙って無理しよるしなぁ」
 苦笑して、四郎は無言で立つ次郎五郎を見上げた。寝ないのならせめて座れ、と自分の隣をぽんと叩く。
 暖炉の中では炎が踊っている。外は風が強いらしく、がたがたと窓が鳴っているがここは暖かだ。
「不安か?」
「……はい」
 ここまでくれば、何かが判るのではないかと思っていた。ひょっとしたら、皆が無事で城も持ちこたえているのではないかという希望も持っていた。
 だが、城塞に着いてみると皆は行方不明で、この先の見通しも立たない。
 じわじわと、気力が削がれていく感覚が苦しい。
「ワシが考えとった、ここに来たときにあるかもしれへん予想の中でも最悪なんは、あいつらの死体が山になっとることやった」
 ぽつり、と四郎が呟く。
「それに比べたら、生死不明なんてまだましや。確かに、今、この瞬間に、ワシの手の届かへんところであいつらが殺されてるかもしれん。でも、ワシはそれを知らん。知らん以上、可能性は同じや。せやったら、今やらなあかんのは、最善を尽くすことしかない。できんことに気を揉んでもしゃあないやろ」
 それでもまだ顔を曇らせている次郎五郎を見て、肩に手を置いた。
「大丈夫や。ワシに直接ちょっかいかけてきてへんのに、先にあいつらを始末するなんて、[五人目]にとったら全然面白ない。ワシの目の前に持ってくるまでは手ぇ出さへんって」
「……それは安心するところなんですか……?」
 小さく呟いて、青年は長く溜め息をついた。
 だが気分を切り替えて、口を開く。
「四郎様。お願いしたいことが、あるんです」


 練兵場に穿たれた穴の前に彼らが再び立ったのは、まだ夜中のうちだった。
「……ええな?」
 片手に松明を持ち、四郎が確認する。息子たちが頷いたのを見て、トンネルの中へ足を踏み入れた。
 内部は結構広い。断面は幅が三メートルほど、高さが二メートルほどの歪な四角形だ。地面にはそれと判る程度の傾斜がついていて、更に地下へと向かっていた。
「ここまで掘るのは、随分時間がかかったんでしょうね」
 小さく感想を漏らす。
「どっから掘ってきたのかにもよるけど、まあ何日かでできたもんやないやろうな。あのゾンビたちは、元々は鉱夫や。ある程度の行動を指示できるんやったら、ここまで掘り進めるんも可能やろう」
「掘った後の土って、どうするんですか?」
 九十朗が素朴な疑問を投げかける。
「一般的には、逆送して入口から外に出す。長距離になると、トロッコなんかを敷設したりもするな。ここには見当たらんから、他の手段を使うたんやと思う」
「他?」
 松明の炎が揺れるたびに、ごつごつとした壁の影が不気味に変化する。
「次郎やったら推測つくんやないか? 風来坊錬金術師と城で会うたとき、どうやって『扉』の中に移動した? あと、エルナスで、あいつはどうやってお前の前から姿を消したんや?」
 どちらの場合も、彼女は乳白色の光を伴っていた。
「あの光は、『扉』と関係あるんですか?」
「おそらく。ワシは設置してある『扉』を使うけど、あいつは携帯できるような形で『扉』の機能を使えるんやろう。けど、多分大容量の移動は無理や。そんなんができるんやったら、城やらワシらへの攻撃はもっと楽にできたはずやからな。……あいつが、この暗い穴蔵んなかでゾンビと一緒に泥まみれになって土砂の処理とかしとったと思うとうきうきするわ」
 男は意地の悪い笑みを浮かべ、呟いた。

 坑道は、大きく螺旋を描くように下へと降りていっている。
 暗闇だけが続くその道を歩いていると、時間の感覚はとっくになくなっていた。疲労が溜まってくるとしばらく休み、ひたすらに前へ進む。
 松明は早々に燃え尽き、一つのカンテラのみで三人の足元を照らしている。
 下へ下へと進んでいくにつれ、頭上にかかる土の重量が増えていくことになるのだ。あの切り立った雪山の高さを思うと、知らず、背筋が冷えてくる。
 兄弟の幼い時の恐怖は、海だった。だが、地の底で押し潰されるのではないか、という恐怖はまたそれとは違う凄まじいものがある。
 それを押し殺し、足を進め、そして、やがてそれは目の前に現れた。
 初めての分かれ道と、その前に立つ一人の老人が。

 長めの白い髪。頬から顎にかけて、短く刈りこんだ白い髭が覆っている。白いローブは裾を引きずるほど長いが、土汚れなどは全くついていない。
 次郎五郎が、素早く手を刀へかける。
 僅かに乳白色の光を纏って立つ老人を、はっきりと見たのは初めてだった。だが、見間違えることはない。
 四郎と九十朗は、ただ無言でそこに立っている。
「ふむ。遅かったな」
 のんびりと、老人が口を開いた。
 太刀は、掌の中で僅かも震えない。
 四郎が、背広の胸ポケットから煙草を取り出した。片手で器用に一本咥え、もう片方の手に持ったカンテラの隙間へと差しこんで火を点ける。
 大きく紫煙を吐き出してから、口を開く。
「今度は実体ですらないんか。ちょっとばかり手ぇ抜きすぎちゃうんか、[五人目]?」

 老人が、小さく笑う。
「いきなり殴りかかってこないだけ、お前も成長したかな」
「はん。ワシの拳が怖いんやないやろ。何のためにこんなとこにわざわざ投影してきてんねん」
 憎々しげに四郎が言い返す。
「そうだな。一つは、道案内だ。こっちの」
 一旦言葉を切って、広い方の道を示す。
「坑道は、その道を掘るために鉱夫を連れてきた時のものだ。地上へ続いているが、その間には無数に分かれ道がある。迷いこんだら野垂れ死には避けられないだろうな。あんな姿になっても、彼らは意外と勤勉だ。感心するね。私がお前を待っているのはこちらの道の方だから、間違わないようにして貰いたい」
「ほぅ。で、ワシの部下はどっちにおるんや。まさか、そんなひと一人通れるぐらいの道をあいつら全員歩かせた訳やないやろ」
「愚かなお前の愚かな羽根たちは、とっておきの場所に隠してあるよ。私がその気にならなければ、お前には見つけられない」
 ちん、と小さな音が響く。次郎五郎が鯉口を切ったのだ。
 四郎が、黙って手を伸ばしてそれを遮る。そして、一歩前に出た。
 老人から、子供たちを護るように。
 そして、おそらくは子供たちが無闇に老人を攻撃しないように。
「一つは、って言うたな。まだ他にもあるんか」
「そうだな。久しぶりに、その子たちの顔が見たかったというのもある」
 さらりと、老人はそう告げた。

「久しぶり、やと? ワシとお前が会うたんかて六百年ぶりやろ。こいつらとお前が面識があるはずがない」
 その言葉とは裏腹に、養父の背中は酷く緊張している。
「お前の愚かさは頭の悪さではないはずだが。今まで、一切不審に思いもしなかったのか? 十一年前、あの小さな港町に、何故私の創った生命体が出現したのだ? 何故そこに、小さな子供が二人、居合わせたのだ? その兄弟が、殆ど似ていないということが不思議ではなかったか? 子供たちを育てていた男は、突然どこへ消えたのだ?」
「……どうして、それを……!」
 次郎五郎の顔色が僅かに青ざめる。
 四郎と出会う前の生活について、彼らは殆ど他人に喋っていない。
 思い出したい記憶ではないからだ。
 なのに、何故この老人はそれを知っている?
 にやり、と老人は笑みを深めた。
「疑いもしなかったのか? その子供たちのどちらかが、私の仕込んだお前への爆弾なのだと」

 長く、紫煙を宙に吹き上げる。呆れたような顔で、四郎は自分の創造主を見つめた。
「阿呆か。ワシを一体誰やと思っとる」
 小さく、兄弟の肩が震える。
 その気配を知らずか、四郎が続ける。
「そんなもん、全然考えもせぇへんかったに決まってるやろ!」
「………………ああ、うん、多分そんなことだろうと思いました……」
 何となく脱力感に襲われつつ、彼の背後で小さく呟く。
 しかし、養父の勢いは止まらない。
「こいつらはワシの息子や。お前が何か悪さしてようが、してなかろうが、血が繋がってようが繋がってなかろうが、ワシの息子なんやから兄弟に決まっとるやろ。それぐらいも判らへんのか阿呆が」
 一息に言い放った男の背中を見つめる。
 その存在感は、幼い日からずっと変わらない。
「そもそもお前の言うことが全て正しいっちゅう前提がおかしいんじゃ! 口先だけで物事解決できるんやったらそれでええ、ゆうんがお前の持論やったやろうが。それでワシが千年以上前からどれだけ迷惑かけられてきたか忘れた訳やないやろな!」
 思い切り私怨で盛り上がっている男を、面白そうに老人は見返した。
「しかしお前は本当に私の言葉を信用しないなぁ」
「今までの行いを全部思い返してから言え! そういう戯れ言は!」
 力の限りに否定する。楽しげな笑い声を残して、老人の姿は消えていった。
 肩で息をしていた男が、姿勢を正す。くそ、と呟いて、煙草を幻影のあった辺りに放り投げた。地面に落ちたそれを、勢いよく踏み躙る。
「行くで」
 四郎が荒々しく足を向けたのは、細い坑道だった。
「そっちでいいんですか? 何か罠があったりとか」
「罠なんぞない訳がない。あいつが言ったことで何か正しいことがあるとしたら、あいつがその気にならへんかったらワシには三郎太たちを見つけ出すことができへん、ゆうことぐらいや。……ぎっちぎちに締めて、その気にさせたろうやないか」
 大の男が通ると、肩が擦れそうなほど狭い坑道に、三人は入りこんだ。勾配は今までよりも急になっている。
 用心して進むように見せかけて、次郎五郎は少しずつ四郎から遅れていった。後ろについている九十朗が、焦れたような視線を向ける。
「……九十朗。話がある」
 囁くように告げられて、黒髪の剣士は数度瞬いた。
「もしも、俺が[五番目]に仕組まれた罠だったら、その時はお前が俺を殺してくれ」

「なに……言ってんだよ、次郎」
 口の中が貼りつくようで、言葉が上手く出てこない。
 兄は慎重に、前を進む養父の様子を伺っている。
「四郎様は、俺を殺さないだろう。でも、俺は、四郎様やお前を裏切るようなことはしたくないんだ。まして、そのせいでお前たちや三郎太さんたちを危険に晒すことなんて」
「だから、なに言ってんだよ! そもそも、あの爺さんは俺たちのどっちだって言ったりしなかったんだから、それは俺かもしれないじゃないか!」
 低く遮る言葉を、頭を振って否定する。
「それはないよ、九十朗。それはない。二年前、マガティアで風来坊錬金術師に傷つけられて、それでも死ななかったのは俺だ。一昨日、エルナスで彼女に傷つけられなかったのは、俺だ。昨日、ワーウルフに一瞬で殺されても不思議はなかったのに、無事だったのは、俺だ。……十一年前、サウスペリで、[五番目]が仕組んだ巨漢を手にかけたのは、俺なんだ」
「じ、ろ……」
 言葉が、出ない。
 暗闇の中でも、ある程度は視界が効く。銀色の前髪の下から、真摯な瞳が見上げてきていた。
「勿論、四郎様の言うように、全てが[五番目]のハッタリだって可能性もある。だから、これはもしも、の場合の話だ。頼むよ、九十朗。こんなことは、お前にしか頼めない」
「……俺にだって、頼んで欲しくなんて、ない……」
 歯を食いしばって、呻くように告げる。僅かに、次郎五郎が笑みを見せた。
「うっかり死ぬことが許されなかったのは、俺の方だったかもしれないな」
「なん……だよ、それ……」
 眉を寄せて問い返す九十朗に、訝しさが残る。
 そういえば、数日前からこんなことが続いていた。
「九十朗……」
「はいはーい。そこの[一枚羽根]たち。不健康な話しとらんと、早ぅ来いや」
 通路の奥から、嫌みの混じった声が放たれる。顔を見合わせ、揃ってばつの悪い気持ちで兄弟は足を早めた。
 四郎が立ち止まっている先には、ちょっとばかり広い空間と、一枚の扉があった。
 見慣れた紋章を目にして、眉を寄せる。
「これは、例の『扉』ですか?」
「いや。どうも、あれとは違うようや。なんか仕掛けはしてるっぽいけど、普通に向こう側と繋がっとる」
 拳で、ごん、と扉を叩く。
 そして、普通にドアノブに手を触れた。
「……開けるで」
 がちゃん、という金属音と共に、扉が開いた。

 
2011/05/04 マキッシュ