Here We Go!!
→ジャクムの祭壇

 扉を開いた瞬間、熱気が頬を焼いた。
 坑道の中は、地上ほどではないが、そこそこ冷える。地下へと進んでいるのだから、当たり前だと思っていた。
 だが、この暑さは。
 目の前に広がるのは、ごつごつとした岩場だ。洞窟であるなら窪みには水が溜まっているはずだが、ここにあるのは鈍く赤い光を放つ灼熱の物体だった。
「……おいおいおい。マジか……」
 苦虫を噛み潰したかのような表情で、四郎が呟く。
「なん……ですか、ここ……」
 呆気に取られて、周囲を見回す。瞬時に吹き出てきた汗が、玉のように額から流れ落ちていく。
「マグマ溜まりや」
「マグマ……?」
 聞き慣れない言葉に、首を傾げる。
「エルナス山脈が火山やったって伝承は聞いたことがあったけど、こんな浅いとこに溜まっとるとかあり得へんやろ普通……。あの阿呆、またなんかやったんとちゃうやろうな」
 だが兄弟の戸惑いには関せず、四郎はぶつぶつと呟いていた。
「四郎様?」
「うん。とりあえず、用心はしとけ。あの赤く光っとる塊は、何千度もあるさかい。特にマントや。ちょっとあれに触っただけで燃え上がるで」
「……気をつけます」
 身震いして、約束する。
 扉の前から、道のようなものが奥へと続いている。とりあえず、三人はそれを辿っていった。
 時折、マグマに行く手を遮られ、飛び越えなければならない場所もあったが。
 九十朗が、徐々に肩を落としていく。息が、酷く荒い。
 彼の体力は底なしに近いと言ってもいいが、暑さによって鎧の内部に熱が籠もることにはどうしても慣れない。
 先を進む四郎は、ただ前方にのみ意識を集中しているようだ。背後の二人にはあまり注意を向けていない。それだけ信用されているとも思え、それはそれでちょっと嬉しいが。
「休むか?」
 小声で次郎五郎が尋ねるのに、口を引き結んで頭を振った。ここで足を止めたところで、どうせ暑さからは逃れられない。
 数秒間考えて、次郎五郎は片手を一振りした。
 九十朗の首の後ろで鎧が小さな音を立てる。次の瞬間、ふわりとその周囲に涼やかな空気が広がった。
 きょとんとして振り返る弟に、素早く引き寄せたナイフを示す。
「あまり急に動くな。怪我をするぞ」
 兄がその小さな武器を振るって、冷気を発してくれたのだ。
「……全く。そんなことしてたら、次郎が疲れるだろ」
 苦笑して、九十朗が言う。
「莫迦。この程度で疲れたりするか。いいから進め」
 事実、疲労を感じるほどの技の大きさではない。彼らは用心深く足を進めた。時折、その場所には不釣り合いな軽やかな音を立てながら。

 溶岩の間を縫うように進み続ける。時には引き返したりもしながら、彼らはとうとうもう一つの扉へ辿り着いた。
 形状としては、先に坑道からこの洞窟へと入った時のものとさして変わりはない。
 無造作に額の汗を拭い、四郎が掌を扉へ押しつけた。ぎぃ、と鈍い音を立てて、それが開かれる。
 その隙間から流れ出してきたのは、無機質な白い光に、涼やかな空気、そして。

 きぃいいいいいいいいい……ん……!

 次郎五郎の腰に帯びた刀が、甲高い音を発する。
 鍔鳴り、といったレベルの音ではない。
 隣から驚いたような視線を感じながら、次郎五郎はその柄に触れた。
「落ち着け。これからだ」
 小さく呟いた言葉に反応したのか、共振は徐々に治まっていく。
 四郎が、扉の内部へ一歩踏みこむ。
「ようこそ、我が創造物たちよ」
 虚ろな響きを伴って、扉の奥から声がかけられた。
 そう、そこから溢れてきたのは、『[五人目]の悪意』だ。


 扉の内部は、一転してまた人工的な雰囲気があった。
 四角く切り出された岩で床や壁は作られている。天井は、遙か遠い闇の中にあって判別できないが。
 壁には、奇妙にデフォルメされた人のようなものが浮き彫りにされている。それはどこか、スリーピーウッドの遺跡に遺されたものを思い出させた。
 部屋というには広く、そして平らだ。障害物は殆どない。空気は一転して冷ややかで、呼吸は楽になっていた。全ての事象を冷静に判断する。ひたすら効率よく、相手を倒すために。
 [五人目]は、部屋の最奥、幾らか高い場所にいた。傍らに巨大な神像のようなものが聳え立っている。
 四郎は、入口から数メートル進んだところで、足を止めた。その数歩後ろに兄弟が控える。
「ようやっと顔見せたな。[五人目]」
「色々と忙しい身なのだよ」
 さらりと返す言葉を無視する。
「ワシの部下はどこにおる。とっとと解放するんやったら全殺しの全殺しの半殺しぐらいで止めといたるで」
 ツッこむところにも思えたが、養父から発せられた「殺す」という言葉が重すぎて、口を開けない。
 [五人目]は、宥めるようにゆっくりと片手を上げた。
「まあ急くな。お前に用事があるからここまで呼び出したのだよ。そうだな、それが終わってもお前が無事でいるなら、私に代わって彼らを解放するように、娘たちに言いつけておこう。ならばお前も安心するだろう」
「ワシが無事でおらへんかったら?」
 無造作に四郎が尋ねる。
「その場合は、お前はもう気を揉む必要はない。そうだろう?」
 その返答を予想していたのだろう、四郎は表情の一つも動かさない。代わりに、次郎五郎と九十朗が動いた。無言で養父の一歩前まで進む。
「ええやろう。とっとと連絡しとけ」
 四郎の堅い言葉に肩を竦め、[五人目]は小さな身振りの後、小声で何かしら虚空へと囁いた。すぐにそれを止めると、三人へと視線を向けてくる。
「さて。そろそろいいかな?」
「待たせすぎや、ボケ」
 男の憎まれ口を聞き流し、老人は片手を傍らの石像へ触れさせた。低い地響きが床を揺らす。
 石像の背後から、長い影が現れた。左右に三本づつ、合計六本。それはゆっくりと前方へ、こちらへと向けて延びてくる。
 巨大な、腕だ。
「……マジか」
 四郎が、掠れた声で呟く。
 閉じられていた石像の瞼がゆっくりと開いた。深紅の光がぼんやりと灯る。
「彼の名はジャクム。私の最新作で自信作だ。当然だがね。さあ、四郎、彼を倒してみたまえ。お前を越えられないようでは、彼に世界は壊せないのだから」
 世界最古の錬金術師が、悠然と告げる。
「自分の最終チェックで、何回自分の創造物を壊されてんのか判っとるんか。学習せぇへん奴やな」
「学習はしているさ。お前にもいずれ判る」
 意味ありげに口にして、老人は祭壇を降りた。ゆっくりと、神像の腕がうごめき始める。
「……悪いな。次郎。九十朗。ここまで酷い事態やなかったらええと思ってたんやけど」
 苦い表情で、養父が呟く。
「先に頼んだのは俺たちですよ」
「そもそも、覚悟なら七年も前にできています」
 敵をひたりと見据え、短く答える。
 無言で、四郎が掌をそれぞれ息子たちの背へと押しつけた。
 食いしばった歯の間から、低く命じる。

「次郎五郎。九十朗。存分に、壊せ」

 次の瞬間、掌から迸った黒いもやが青年たちの肉体を、精神を、記憶を、魂を、……存在を、『破壊』した。



 衝撃は凄まじかった。
 掌が触れた場所から、皮膚に、肉に、骨に、爪に、脳に、心に、
 抉られ、刻まれ、毟られ、折られ、剥がれ、裂かれ、穿たれ、潰され、躙られ、捩られ、


 ……前夜、城塞で、彼らは養父に願いを告げたのだ。
 彼が戦いに勝つ為に必要なのであれば、自分を『破壊』して欲しいと。
 四郎が、過去に意識的にではなく『破壊』した三郎太は、人間ではあり得ない肉体を得ている。
 彼が意識的に人間の限界を破壊できるのであれば、それは更なる力となり得るだろう。
 だが、[禍津星]は、それを聞いて薄い笑みを浮かべるばかりだった。
 おんなじことを言うんやなぁ、と小さく呟きながら。


 ばきばきと、がりがりと、ごりごりと、ざりざりと、ぎしぎしと、
 鎧など紙ほどの強度もなく、覚悟など夢ほどの精度もなく、正義など露ほどの純度もなく、
 唇は絶叫を紡ぎ、瞳は白熱を宿し、指先は痙攣に踊り、臓腑は苦みに引き攣り、
 崩れ去った先に、流れ去った先に、捨て去った先に、消え去った先に、

 まるで水中から顔を出した時のように、ふいに、甘く新鮮な空気が全身を満たした。
 一、二歩、とん、と爪先だけでよろめいて、次の一歩で地を蹴りつける。
 ……軽い。
 驚愕に、眼を見張る。
 『破壊』にかかった時間は、さほど長くはなかったらしい。ジャクムから伸びてくる腕の位置は、記憶にある場所とそう変わらない。
 兄弟は、最も近い一本へと向けて走りこんだ。
 数メートル手前で、九十朗がだん、と大地を踏み切った。
 全身鎧を着ているとは思えない跳躍で、見上げるような高さにあった腕の更に上へと飛び上がる。
 頭上へ反り返らせていた両手が、背に負った大剣を掴む。
 次郎五郎は、そのまま腕の下へと走りこんだ。僅かに身を屈めたために、巨大な指が銀色の髪だけを掠めていく。
 そして、二人は石像の手首、最も細くなった部分に上下から斬撃を叩きつけた。火花が、四方へと散る。
 弟の身体が近すぎて、次郎五郎は剣戟に魔法を纏わせることはできない。しかし、『破壊』された肉体と、〈剣聖〉の祝福を宿した太刀の威力は、普段とは桁違いな傷を負わせた。
 一度で両断できるほど、相手は弱くはなかったが。
 瞬間、背筋に凄まじい圧迫感を覚える。
 つい数分前、徒人として対峙していた時には、四郎の焦りが判らなかった。
 確かに巨大ではあるし、恐ろしく強いのだろうという推測は持っていたが、それを肌で、魂で感じることはできなかったのだ。
 しかし、この邪悪さが。強大さが。圧迫感が。
 じわり、と冷や汗が滲む。
 これが、四郎の見てきた世界。
 無造作にあれの前に立っていたことが今となっては信じられない。
 いわば、あの時の彼らは蟻と巨象のようなものだ。相手の脅威はおろか、全容すら知ることができていなかった。
 『破壊』は、彼らの限界を壊しただけである。疾走が、跳躍が、腕力が、そして感覚が、普段の数倍の威力を以て具現していた。そのために、むしろ実力差を痛感することになるとは、皮肉なことだが。
 しかし、『破壊』によって、今まで全くできなかったことができるようになる訳ではない。
 奇妙な和音を描いて、ジャクムの顔の前に乳白色の光が環状に踊る。
 それが魔法陣となった瞬間、空気がぴりぴりとひび割れた。

 今まで全くできなかったことが、できるようになる訳ではない。
 ジャクムの腕の上に、高所に立つ鎧姿の戦士が、雷撃の格好の餌食となることを防ぐための何かが。
「九十……!」
 警告の声が、何を成せる訳ではない。
 視界いっぱいに、発光が広がり、そして。
 轟音が、それを一点に収縮させた。

 呆然として、魔法陣があった中空を見上げる。
 先ほど響いたのは、雷鳴ではなかった。
 ゆっくりと、背後を振り返る。
 兄弟の視線の先で、黒衣の男が不吉に笑う。
「避雷針ぐらい、いくらでも撃ちこんだる。ぼぅっとしてなや、次来んで」
 彼がその手に握られた拳銃から魔法陣へ向けて撃ち、銃弾に雷撃を誘ったのだ。
 九十朗が、短く笑い声を上げた。
 次郎五郎も、零れる笑みを抑えられない。
 大丈夫だ。
 家族が揃っている今、自分たちは『太陽の動きでさえ、簡単に止められる』のだ。
 確かな手応えを感じて、彼らは勝利を確信しかけていた。
 [五人目]の、謎めいた表情にも気づかないままに。



 暗がりに目が慣れるのは、さほど時間はかからなかった。
 水の沁み出してくる壁も、それが溜まったまま排水されない床も、どうということはない。
 板を敷き、その上にじめじめと湿った黴臭い藁が広げられた寝床など、最低にはほど遠い。
「……何日経ったと思いますか?」
 隣の牢獄から、力ない声が漏れる。
「一日二食だとして、五日ぐらいではないですか」
 返事に、溜め息が漏れた。おそらくは内容ではなく、彼女の毅然とした声に対して。
 三郎太は、元から格別な武装をしていないということで、今は特別な扱いはされていない。独房に最低限の衣服で放りこまれているだけだ。
 だが、トゥキはそうではなかった。
 城塞で最前線で戦い続けた、桁違いの威力の魔法を放つプリーストだ。杖を捨てさせられても、その実力は脅威となる。
 彼は今、腕を身体から離すことのできない拘束服に身をくるまれている。呪を唱えることはできるが、『行動』に移すことができない以上、魔法は発動しない。
 無力感と焦燥、そして勿論この独房の環境が、徐々に彼の気力を削いでいた。彼は百戦錬磨の城主ではあったが、その出自から推測するに、このような場所にいた経験はないのだろう。
 部下たちは、少なくとも声が聞こえる範囲にはいない。
 二人きりで、彼らはじっと耐えていた。

 鉄格子の向こう側の通路が、ぼんやりと明るくなる。
 軽い足音と共に姿を見せたのは、風来坊錬金術師だった。
「ご機嫌いかが?」
 一見愛らしい笑みを浮かべ、尋ねてくる。
 二人がこの独房に入れられて以来、時折こうして彼女は嘲りにやってきていた。既に慣れている囚人たちは、闇の奥から無言で見つめ返している。
「そうそう、嬉しいお知らせがあるわ。貴方がたを見捨てたあの[旧システム]が今更のうのうとやってきたわよ」
 だが、続く言葉には流石に息を飲む。
「四郎様、が……」
 トゥキが低く呟く。長く、三郎太が息をはいた。
「……なるほど。ここまで来られたということは、おそらく準備は万端ということね」
「だったらどうなの? [旧システム]は、まっすぐお父様のところへ向かっている。貴方たちを救けに来る訳じゃないわ。大体、お父様と[新システム]に勝つことなんてあり得ない。どちらにせよ、貴方たちはここで絶望して死ぬのよ」
 呆れたような錬金術師の言葉に、薄く笑みを浮かべる。
「世界に絶望を撒き散らすのは、我が狼のみだ」
 血と泥に汚れた身体が、すっと立ち上がる。
「さて、ひたすら先延ばしにしてきたけど、四郎様も九十朗もここにいない以上、仇を討つのは私の役目ですね」
「……妥当な判断だと思いますよ」
 暗い隅で、ぐったりと藁の上に座りこんでいた男が、よろめきながら立ち上がった。ひび割れた唇を小さく動かし、ふらりと身体を傾がせる。
 片足が、勢いよく牢獄を隔てる壁を蹴りつけた。
 次の瞬間、三郎太の目の前に、黄金色に光る一枚の扉が現れる。
 そして、牢と通路を隔てる格子の向こう側に、もう一枚。
「……そんな!」
 驚愕の声を上げる少女に、常識ではあり得ない『行動』で魔法を放った男は、吐息が漏れるような笑い声を上げた。
「本職が、不可能という制約にいつまでも拘っている訳にはいかないんですよ」
 三郎太が、大股でその扉をくぐる。ほんの一瞬の後、もう一つの扉からその姿が現れた。
 目の前に立つ三郎太に、少女はやや身構えた。
「……だからって、貴方に何ができるっていうの」
「私に、何ができないと思っている?」
 爪の割れた素足で、とん、と石の床の感触を確かめる。
 武器は全て取り上げられていた。薄手の手袋すら外され、幾つもの傷を露わにした腕を上げる。
 光を失わない瞳が、ひたりと少女を見据えた。
「第二十七代帝王奴隷、隷舎八番十四号改め、三郎太」
 血と泥に汚れた身体を真っ直ぐに立て、爪の割れた素足で床を踏みしめ、幾つもの傷を露わにした拳を握りしめた。
 その胸元には、五枚の羽根を背負った燃え盛る隕石の紋章が彫られている。
「格闘奴隷ですって!? 莫迦な……!」
 驚愕に声を上げる錬金術師は、無意識に一歩下がる。
 三郎太の視線は外れない。
「……参る」



 ジャクムの腕は、三本まで減った。
 九十朗の大剣を叩きつけ、次郎五郎の太刀を滑らせ、四郎の銃弾が雷撃を未然に防ぐ。
 まるで作業のように、ダメージを与えていく。
 気が緩んでいた、訳ではない。
 ジャクムが魔法陣を生じさせる時の音が、それまでとは違う和音を描く。
 訝しげな視線を、ちらりと上空へと向けた。一度に三つの魔法陣が現れている。
 雷撃を起こす時に伴う、うなじの毛を逆立てる空気は起きていない。
 指を引き金に掛けたまま、四郎が魔法陣を見据えている。
 最後の和音が消えて、中空の魔法陣から何かが姿を現した。
 ジャクムと同じ、岩でできた、三体の小さな生物のようだ。小さいといっても、成人男性に比べてやや小柄だという程度だが。
 完全に魔法陣から抜け出た瞬間、それらは姿を消した。
 瞬いた視界に、奇妙な顔が鼻をつき合わせる近さで出現して、息を飲む。
 反射的に振り抜いた剣は、骨張った腕で受け止められた。
 驚愕の声が短く聞こえ、他の二人も似たような状況なのだと察することができる。
 この敵にだけ気を取られていては、ジャクムの腕に潰されかねない。数歩、ジャクムから距離を取る。
 視界の中に、九十朗の姿が入ってきた。敵が手にした、宝玉のようなものが、弟の剣に砕かれる。
 ぶわり、と煙のようなものが広がり、九十朗の姿を包みこんだ。
「九十朗っ!」
 咄嗟に声を上げるが、煙はすぐに消え去り、後には眉を寄せて頭を振る黒髪の青年があった。ほっと、肩の力を抜く。
 突然、兄弟に向かっていた敵が姿を消した。
「うぉあっ!?」
 背後から慌てた叫びが生じる。振り向いた先で、四郎が三体の敵に囲まれていた。
「四郎様!」
 反射的に、踵を返した。自分の元へ駆け寄ってくる兄弟に視線を向け、四郎の瞳が見開かれる。
「……九十朗……ッ!」
 四郎の声に、肩越しに背後を振り返る。大剣の刃が鈍く光を反射して、目前に迫っていた。


 痺れが、骨まで響いている。
 歯を食いしばって、押し切られるのを耐えた。ブーツの底が岩に擦れる。
 大剣をかろうじて太刀で受けられたのは、奇跡と言ってもいい。九十朗の力と、純粋な剣の技量には、『破壊』されていなくても敵う訳がなかった。
 ……いや。
「じ、ろ……」
 呆然として、九十朗がこちらの顔を見つめている。
「次郎……、俺、何で……」
 呆然として呟かれる声とは裏腹に、未だに全力でその大剣はこちらへ迫ってきている。
 この攻撃を受けられたのは、ひとえに、〈剣聖〉の祝福によるものだ。
 ……そうだ。この斬撃には、『[五人目]の悪意』が満ちている。

「……落ち着け、九十朗」
 できる限り静かに声をかける。自分が慌てていては、状況は悪化するだけだ。
 九十朗の表情からは、殺意は感じない。状況の把握ができず、酷く焦ってはいるが。
「落ち着いて、手から力を抜け。勢い余ってお前を斬ったりしないから」
 茶化すように告げるが、九十朗は泣き出しそうな顔で首を振った。
「やってみてる! けど、無理なんだ。剣も離せない」
 九十朗の剣を無理矢理に弾き飛ばすことはできるだろうか。剣の重量も、腕力も弟が上である。見込みは薄い。
 圧力が更に強くなる。このまま鍔迫り合いを続けていても、おそらく先に体力が尽きるのはこっちだ。
 前触れなく、一歩退いた。次の一合で刀身を絡め、武器を落とすつもりだったのだ。
 が、九十朗は軽く手首を捻り、大剣を兄の横腹へ叩きつけた。
「……っ!」
 悲鳴も上げられず、軽く吹き飛ぶ。数メートル後方の地面に崩れ落ちた。
「次郎!」
 悲痛な叫びが聞こえるが、現実感がない。
 『[五人目]の悪意』がすぐに止めを刺しにくるかと思ったが、足音はこちらに向かってこなかった。涙の滲む目を上げると、鎧姿の剣士はまっすぐに四郎へと向かっている。
 痛覚も壊して貰えばよかった、と苦く思いながら身体を起こした。もつれそうになる足を叱咤する。苦痛を無視して、九十朗の身体にぶつかるようにして立ち塞がった。
 甲高い金属音と共に、再び剣を太刀で受け止める。
「次郎、無茶を……」
 九十朗の言葉に、引きつった笑みを浮かべた。
「心配するな。胴はまだ繋がってる」
 衣は破れてしまったものの、下に着ていたミスリルの鎖帷子がそれ以上の被害を防いでいた。尤も、衝撃を完全に防ぐことはできなかったが。
 『[五人目]の悪意』の目的は四郎だろう。九十朗を、ここから進ませる訳にはいかない。
 四郎は、先ほどジャクムが召喚したものたちと対峙していて、それはそれで気になるが、九十朗は片手間に相手できるような腕ではない。意識を弟に集中する。
 九十朗は兄を押し切ろうとすることをやめ、大剣をひたすら振るってきた。
 大剣は、その重さと勢いで攻撃する武器だ。下手に鍔迫り合いでもすれば、太刀の刃など簡単に欠ける。
 その重い斬撃を受けるたび、次郎五郎は内心酷く怯んでいた。
 しかし幾度となく剣を交えても、彼の太刀は刃こぼれ一つしなかった。
 〈剣聖〉の祝福というものの凄まじさに驚嘆する。
 それでも、一体いつまで凌げるものか。
 それを懸念しているのは、次郎五郎だけではなかった。
「……次郎」
 幾度目かの金属音の残響が微かに残るうちに、九十朗が口を開いた。
「俺を、殺してくれよ」

「莫迦を言うな」
 素っ気なく返す言葉は、早すぎなかっただろうか。
「いつまでもこうして討ち合ってても仕方がないじゃないか」
「そこから一足飛びに死ぬって選択肢を選ぶな。俺が何とかする」
「どうやって? 例え脚を折ったって、今の俺はそのまま歩いていくよ。賭けてもいい。毒を使って動けなくしたって、同じだ。まだジャクムが残ってるのに、俺相手に消耗戦に持ちこんでも、次郎も同じぐらい消耗するんじゃ意味がない」
 意外と冷静に、九十朗は理由を列挙した。
「駄目だ」
 眉を寄せ、一言だけで拒絶する。
 背に、汗が滲む。
「次郎だって、先刻、自分がそうだったら殺せって言ってただろ!」
 痛いところを衝かれて、沈黙する。一瞬、大剣を防ぐタイミングが遅れた。
 腕の痺れが消える間もなく、次の攻撃を受け流す。
 [五人目]の罠にかけられたのが九十朗だなどと、考えもしていなかった。
 覚悟など、できるわけがない。
 九十朗の顔色は悪い。当然だ。彼は、今まであからさまに死に直面したことはなかった。
「頼むよ、次郎。……怖いんだ。こうして次郎に斬りかかっているのが本当は俺の意思なのか、それに対抗して、こうして話しているのが俺の意思なのか、判らないんだよ」
 歯を食いしばる。弟の、こんな懇願など、聞きたくはない。
 次の一撃で、ふらついた。数歩よろめくが、無理に再び間を詰める。
 九十朗を、ここから移動さえさせなければ、きっと。
 きっと、何とかできるはずだ。
 息が荒くなってきた。一度、大きく呼吸してリズムを戻す。
 次の一合を凌げば、きっと。
 現状から半ば目を逸らせていた次郎五郎を引き戻したのは、静かな声だった。
「頼むから、兄貴。俺を、最後まで家族のままでいさせてくれ」
 ふ、と肩の力を抜く。真っ直ぐに、弟の顔を見つめた。
 幼い時からずっと傍にあった、顔を。
「判ったよ」
 弟が剣を引こうとするのに、強引に前へ進んでそれを防いだ。討ち合っていては体勢が安定しない。
 刃を絡ませたまま、片足を軽く浮かせる。踵を鋭く岩へ打ちつけた。小さく音がして、爪先からナイフの切っ先だけが姿を見せる。
 毒と冷気では、即死にはほど遠い。炎は、暑さが苦手な九十朗には不憫だ。
 結果、次郎五郎にできうる限り最大級の雷撃が、彼を襲うことになる。肉体に触れられなくても、鎧は簡単にそれを伝達するだろう。
 言葉は出ない。瞳と心を弟の姿で満たして、次郎五郎はそのまま脚を後ろへ引き、勢いをつけて九十朗へ向けて叩きこんだ。



 マントの隙間から、指先だけが覗く。僅かにそれが揺れた瞬間、鋭く風切り音が響いた。
 まっすぐこちらへ向かってくる脅威を、表情一つ変えず、三郎太は拳で横殴りに弾いた。固い音がして、岩でできた壁に小さな物体がめりこむ。
「莫迦な……!」
 驚愕に口走る少女を、冷えた視線で見つめた。
「私が二百年の間、四郎様のお傍に仕えていたという意味がまだ判っていないのか? それがただの人間にやすやすと務まる任務ではないことぐらい、お前の父親は教えてくれていなかったのか?」
 さりげなく関係者全員を侮辱して、三郎太は一歩、足を進めた。
「あり得ない! アダマンタイトの合金でできた擲弾なのに! 素手で触れて、傷ひとつ負わないなんて、そんなこと!」
 しかし目の前で起きた現象が理解できていない錬金術師はそれに気づかない。
 小さく肩を竦め、三郎太はごつごつとした床を蹴った。素足であるということは、彼女にとって何のハンデでもない。
 思わず、錬金術師が大振りに腕を振る。露わになった腕は、肘から先にかけて、側面に奇妙な器具が取りつけてあった。筒状の先端から、空気が圧縮されたような音と共に、擲弾が放たれる。
 三郎太の対処は前回と同様だった。距離が近づいたことで、やや破壊力が増していただろうが、結果はやはり同様だ。
 呆然とする少女の腕をあっさりと掴み、捩り上げる。
「やぁああああ! 離して!」
 悲鳴が上がっても、三郎太は冷静だ。
「さて、おとなしく私の要求を飲んで貰おうか。勿論、拒絶するのもお前の自由だ。実際、その方が私も少々気晴らしができていいかもしれないな」
 錬金術師に対する言葉は、普段の三郎太に比べるとかなり荒い。しかしそれ以外には全く感情を交えない声に、ぞくりと背筋を震わせる。
「……舐めないでちょうだい。この地にいる私が、一人だけだとでも思っているの? お前が牢を出ていることなんて、他の妹たちにはとっくに知れている。それはお父様が知っているということよ」
「それがどうかしたのか?」
 問いかけられて、言葉に詰まる。
「お前が何人いようが、四方から擲弾とやらを撃ちこまれようが、私に、一人きりでいる私に、一体何の脅威になると思っている?」
 既に視界からは外れているが、声だけは聞こえてくる。暗闇の中、トゥキはその皮肉な言葉に、僅かに視線を天井へと向けた。
 まあ、彼女にとって、自分はただ足手纏いでしかないことなど、初対面の時から判ってはいたが。
 確かに流石の彼女でもゾンビの人海戦術には対処できなかったが、まさか錬金術師の妹たちが数百人規模でこの地にいるわけでもあるまい。
「私の要求は簡単だ。トゥキと彼の部下たちの解放と、城塞までの道案内、帰り着くまでの安全の確保だ。一つも難しいことなんてないだろう?」
 教え諭すような口調で言い渡す。しかし、錬金術師は虚勢が入っているとしても酷く強情だった。
「舐めないで、と言った筈よ。貴方なんかに屈するものですか」
 三郎太が小さく鼻を鳴らした直後に、ごきり、という音が響く。
「あぁあああああああっ!」
 絶叫が、通路に反響した。
「お前は、もう少し、私が一人きりでいるという意味を考えた方がいい。特に、ここには四郎様の目が届かないということを。だけど、それは別に私のせいじゃないわよね?」
 拘束服というのは、耳を塞げないからちょっと不便だ。寝藁の所まで戻るのも億劫で、トゥキは壁にもたれかかりながらそう考えた。



 手応えは、やけに柔らかかった。
 小さく爆発したような衝撃が鈍く伝わってくる。
 だが、目の前の弟の瞳から生が失われるということはなかった。
 呆然として、視線を下へ落とす。
 床に屈みこみ、掌で次郎五郎のナイフを受けとめている人の姿があった。僅かに、焼け焦げたような臭いが立ち昇る。
「……四郎様!?」
 驚愕と、そして恐怖に兄弟が揃って悲鳴を上げる。慌てて、次郎五郎が足を引いた。
「……っつー。流石にキツいわ……」
 呟いて、苦笑しながら見上げてきた養父は、さほどダメージを受けているようでもなかった。
 ほっとしたと同時に、太刀にかかる圧力が増した。無意識に力が抜けたのかもしれない。
「すぐや。ちょっとだけ、そのままでおれ」
 囁いて、四郎は無事な方の手を九十朗の大剣に触れさせた。ぶわ、と掌から黒いもやがあふれ、大剣に絡みつく。
 数秒も保たず、ばきん、と音を立てて大剣が数カ所で折れた。九十朗はバランスを崩しかけるが、何とか倒れることは避ける。目の前に次郎五郎の太刀が抜き身で向けられていたことを思えば、必死にもなるだろう。
「もう平気やろ?」
 柔らかな養父の声に、唖然としていた九十朗が、慌てて両手に視線を落とす。『[五人目]の悪意』が継続していれば、例え素手になったとしても襲いかかっていただろうが、そんな衝動はもうない。
 なにより、マンジから受け取った太刀が、九十朗に対する反応を止めていた。
「どうして……」
 事態が飲みこめず、九十朗が呟く。
「お前がホンマに、ワシと会う前からあいつの罠にかけられとるんやったら、今よりも前に幾らでもワシの寝首を掻く機会はあったやろ。仕掛けられたんは、最近や。お前が一人きりになる機会は何度かあったけど、長時間やない。意識を全部支配するように書き換えるだけの時間はなかった筈やから、支配自体は無機物にした方が確実や。その剣やな、つまり。お前が干渉されたとしたら、剣に逆らうな、ぐらいやったんちゃうか。……間違いがあったら正してええで」
 最後の一言は、[五人目]を見据えて告げる。
 老人は口を開かない。
 ぺたん、と次郎五郎が崩れ落ちた。
「次郎!?」
 慌てて、九十朗が俯いた兄へ屈みこむ。
「……気が抜けた……」
 泣き笑いのような表情で、吐息と共に言葉を零す。
「ごめん! ごめんな、次郎!」
 次郎五郎の前に膝をつき、九十朗が頭を下げる。
「やめろ。俺に土下座なんてするんじゃない。大体、お前は全然悪くないだろ」
 疲労の残る顔で、次郎五郎が諫めた。
「俺が悪いんだよ! 俺が……」
「ホンマに、不健康な会話が好きやな、お前らは」
 呆れたように、四郎が遮った。
「そもそも、悪い言うんやったら、ダントツで悪い奴が目の前におるやろ」
 意味ありげに遠くへ視線を向ける。数秒遅れて、息子たちが顔を見合わせた。気恥ずかしげに、小さく笑う。
 それににやりと笑みを見せて、四郎が片手を銀の髪に乗せた。
「よう持ちこたえたな、次郎」
 途端に焦げた臭いが強まって、鋭く顔を上げた。
「四郎様、腕は……」
「ん? ああ、半生や。大したことない」
「いや半生って」
 呆れたように九十朗が呟いた。
 さて、と呟いて、四郎は腰を上げた。まっすぐに[五人目]に向き直る。
「こすい手ぇで中断されたけど、そろそろ仕切り直そか。なぁ?」
 その言葉に、慌てて九十朗が立ち上がった。
「四郎様、でも俺、剣がなくなってしまったから……」
 マンジのところに置いてきた剣を思い返す。無理にでも持ってきていたらよかっただろうか。
 だが、四郎は小さく肩を竦めた。
「心配いらん」
 軽く広げた掌の上に、黒いもやが渦を巻いた。胸の前で両手を向かい合わせ、そして一気にそれを広げる。
 引き延ばされたもやが、黒光りする一振りの剣に変化していた。長さは、つい先刻まで九十朗が使っていたものとさほど変わらない。
「ワシが千年前、破壊の限りを尽くしとった時に使ぅとった奴や。破壊力だけは保証したる」
 無造作に、柄を向けて渡された。手にしたそれは想像したよりもはるかに軽かったが、重量ではない何かが酷く、重い。
「……お借りします」
 神妙に九十朗が返す。
 上方で、和音が響く。幾つも重なるそれは、耳慣れない音楽のようにも聞こえた。
 中空に魔法陣が描かれる。縦横に三列ずつ。
「………………マジか」
「私はいつだって本気だよ、四郎」
 硬い声で、[五人目]が告げた。冷笑とそれに伴う余裕が消えている。
 九つの魔法陣から、ゆっくりと奇妙な生物が産み落とされ始めた。更に、その上空に三つの魔法陣が追加される。
 四郎が、ホルスターに納めていた拳銃を抜き放つ。ぴりぴりと、空気が緊張した。
 全ての魔法陣から、三人に対する悪意が解き放たれた。

 息が、荒い。
 痺れが指先まで達していて、気を抜くと太刀を落としてしまいそうだ。
 常時、召喚された生命体が一人当たり二体以上の数で相対している。その素早い動きに、剣が空を切ることも増えてきた。
 倒せていない訳ではない。すぐさま、それと同等以上の数が投入されているだけで。
 他の二人の戦いに意識を向けることもできない。かろうじて、雷撃が発するときには四郎が防いでくれているが、それが彼に隙を生んでいる可能性が高い。だからといって、フォローができる訳でもないが。
 見えていない左側面から襲いかかられる。何とかそれに対処できているのは、ひとえに、太刀自身の反応があるからだ。
 がきん、と岩の身体に刃を叩きつける。
 しかし、その後ろから時間差で二体目が接近していたことを目にした瞬間には、次郎五郎の身体は呆気なく撥ね飛ばされていた。
 全く気を抜くことができないまま戦い続けてきた肉体は、一度崩れると再び立ち上がるのが難しい。ぎこちなく腕に力を入れようとした時、鈍い重みがかかる。
 両腕の上に、石像がゆっくりと着地しようとしていた。
 みし、と骨が鈍く軋む。
「……ぁあああああああ!」
 ひび割れた声で、叫ぶ。腕を引き抜こうと足掻くが、それはぴくりとも動かなかった。
 遠くで名前を呼ばれた気もするが、はっきりしない。
「が、あ、ああ、あ!」
 獣のような絶叫が押し留められない。
 がしゃん、と傍らで金属音が響く。低い呻きは、立て続けに金属に打ちつけられる音に掻き消されていた。
 喉を仰け反らせる。霞んだ視界に、銀色の鎧が映った。地面へ転がったそれの上で、数体の石像が飛び跳ねている。ばちん、と留め金が弾け飛ぶ音がした。
 踵で、地面を蹴る。押し潰された腕は、ほんの僅か、ずらすことすらできない。
「次郎五郎! 九十朗!」
 養父の声は、途中で方向と距離を変えた。九十朗の身体の向こう、ジャクムの祭壇がある辺りに乳白色の光が溢れたと思うと、そのただ中に四郎が姿を見せる。
 数メートル離れたところに[五人目]を認め、男は一瞬怯む。
「お前の養い子たちは、なかなか強情だな、四郎」
 さらりと告げられた言葉に、瞬時に激昂した。
「てめぇ……!」
 勢いよく伸ばされた腕は、僅かに身を反らされ、指先で頬を浅く抉るのみに留まった。
 すぐに集まってきた召喚体たちが[禍津星]の身体を確保する。
「ワシにはお前が壊せへんとか、昔抜かしとったな! お前の呪いなんざ、ワシが本気になったら簡単に破れるのが判ったか!」
 四郎が声高に吠える。手で頬に触れて、[五人目]は肩を竦めた。
「……まあいいだろう。お前に、これぐらいの借りはある」
「こんなもんで済むとか思っとるんやないわ! 全殺しの全殺しの全殺しや言うたやろ!」
「最後は半殺しにまけてくれるのではなかったか?」
 呑気に老人が問い返す。
 ジャクムが、瞼を閉じた。それまで瞳に宿っていたものと同じ紅い光が、胸に抱くように持っている、枠の内側から放たれる。
 枠の奥から、その光を凝らせたような質感の、細い蛇のようなものが現れた。床を這って四郎に近づくそれは、徐々に数を増やしていく。
 蛇が足に絡みつく。引っ張られる力に対抗しようにも、既に膝まで隙間なく巻きつかれているのと、上半身を石像に固定されていて、まともに逃れられない。
 四郎の足が、ゆっくりと光に飲みこまれ始めた。
「私が、どうして六百年もお前を放っておいたのに、今更取り返しに出向いたと思う?」
 [五人目]がその情景を満足そうに眺めながら、訊いた。
「自分から打ち捨てといて、偉そうに言うてくれるやんか」
 僅かな抵抗を諦めず、荒い息の下で、それでも吐き捨てるように告げる。薄い笑みを崩すことなく、[五人目]は続けた。
「今まで多くのものたちを創り出してきたが、お前ほど〈破壊〉に特化したものはいなかった。このジャクムは、勿論それ自身も確かに脅威だが、かれのシステムの半分ほどを占めるのは、破壊力ではない。増幅装置だ」
 僅かに、四郎の眼が見開かれる。
 この、光を孕んだ枠は、ちょうど人一人が立ってくぐれる程度の大きさだ。そう、サイズとしては柩に近い。
「お前の力を存分に発揮できるようになるまで、千三百年かかったことはすまないと思っているよ。さあ、その身を速やかに創造主に捧げるがいい、〈死狼〉」
「……貴様……ッ!」
 ジャクムの胎内に、四郎の下半身が飲みこまれていく。捩るように逃れようとする身体に、光る蛇が次々に巻きついた。
 もう充分に拘束できたと判断したのか、石像は四郎から離れていった。
「はな……せ」
 脂汗を流し、眉を寄せながら、次郎五郎は片足を持ち上げた。可能な限りの高さまで上げたところで、一気に力を抜く。
 がん、と踵が床に激突する。瞬間、身体に走った激痛に悲鳴が漏れた。
 だが、爪先から先端が出ていたままの刃物が脚の軌跡に添って動いたことで、目的が達成される。
 轟音を立てて、腕に、そして九十朗の身体の上に乗っていた石像に火柱が立った。一瞬の間をおいて、薄い煙を一筋立ち上らせながら、崩れ落ちる。
「う……あ……」
 呻きながら、九十朗が無理矢理身体を起こす。がらん、と音を立て、鎧の左肩部分が地面に落下した。
「あああああああああああっ!」
 だん、とその傍らに足を踏みしめる。
 全身鎧は、あちこちがへこみ、傷ついている。唇を切ったのか、端に血の筋がついていた。血を吐いたのか、という疑問は今は考えないでおく。
「……止める、なよ、次郎」
 食いしばった歯の隙間から、低く告げる。
「止める訳がないだろ……」
 次郎五郎は、元石像だった瓦礫に縋って上体を起こし、背をもたせかけた。そこまで動けただけでも驚異だろう。力なく投げ出した四肢を見るに、もう力は残っていまい。だが、彼は何とか左腕を持ち上げた。しかしそれも数秒も保たず、がくん、と地に落ちる。
 その衝撃で、袖から細身のナイフが転がり出た。
 指先でそれを引っかけ、掌に握りこむ。右手で引き寄せた太刀が、地面に擦れて嫌な音を立てた。
 逆手に手にした太刀とナイフを、その刀身で岩を抉るように同時に振り抜く。その軌跡のまま、九十朗の目前から氷柱が屹立する。まるで氷のトンネルのように、上方へ向け僅かなカーブを描いて二枚の氷の壁は突き進んだ。一直線に、ジャクムへと向けて。
「行け、九十朗!」
 初めて、兄の意思で手綱を放された〈猛き狂犬〉は、氷柱に添って地を蹴った。先ほどまで四郎を捕まえていた、ジャクムの召喚したものたちが浮遊しながら近づいてくるが、低く走り抜ける青年を護るように配置された氷柱に阻まれる。
 走りながら、奇妙なことに気づく。苦痛が、少しずつ軽くなってきているのだ。
 ……次郎だ。
 兄が、この氷柱を作り出す時に、一緒にヒールを放ったのだろう。氷柱の近くにいることで、僅かではあるが癒されているようだ。
 九十朗は、魔法に関しては素人だ。想像したことがどれほど常識外れな事態なのかということに思い至らない。
 尤も、次郎五郎の技に関しては、そもそもの最初から常識的なことなど何一つなかったのだが。
 ジャクムの祭壇の前、氷柱が途切れた辺りの様子が見えてきた。養父は、既に胸まで取りこまれてしまっている。頭をがくりと反り返らせ、瞳は閉じられたままだ。
「四郎様!」
 駆け寄りながら手を伸ばす。紅い光の領域に指先が入った瞬間、鋭い音がして、跳ね返された。
「うぁっ!?」
 数歩よろめくが、怯むことなくすぐにまた踏みこむ。しかし四郎に手が届く前に、再び阻まれた。
「無駄なことは止めるがいい。[羽根]如きが手出しできるものではない」
 悠然と、[五人目]が少し離れた場所から告げた。
「うるせぇよ! 四郎様を離せ!」
 怒声を上げて、がむしゃらに身を進める。
「お前がやっていることは、全く意味がない。大人しくしていれば、今この場で生命を獲ることはしないでおいてやろう。戻って、成り行きを見守るがいい」
「うるせぇって言っただろ! 意味なんて、あんたに判ってもらう必要はない! 帰るんだよ、家に! 兄貴と、父親と、家族と、みんなと、家に帰るんだ! それだけなんだよ!」
 声音に、涙が滲んでいる。いつも強靱で、明るく、楽天的な九十朗が、涙を流していた。
「実に非合理的だな。[翼]……四郎もそういうところがあったが、まあこれからは改善できるだろう」
 呟いた[五人目]の傍らに、小型の石像が落下した。煤にまみれ、薄く煙を上げている。
 視線を流した先には、ゆらりと立ち上がり、切っ先を老人へ向けた銀髪の青年がいた。隻眼が、真っ直ぐに見据えてきている。
「……俺の弟と、家族を侮辱するな。焦がすぞ?」
 小さく肩を竦めて、やり過ごす。青年たちに何ができる訳でもない。
 ジャクムの瞳が再び開いた。
 更に敵を召喚するか、または残った腕で攻撃してくるか。どちらにせよ、今は次郎五郎が一人で対処しなくてはならない。
 九十朗が移動している間に、自分へヒールをかけて何とか立ち上がれるところまでは回復した。だが、全快にはほど遠い。
 九十朗が、手にした漆黒の剣を振り上げた。
「そんなに欲しいなら、持っていけ!」
 四郎の身体が飲みこまれている枠に、叩きつける。まるで何の手応えもなく、剣は紅い光の中に沈んだ。
 そして、それを持っていた、九十朗の腕も。
 剣は、四郎の『破壊』の力でできている。元々四郎を取りこもうとしていたジャクムは、それに抵抗する意思はなかった。が、九十朗については、おそらく、勢い余って受け入れてしまっていたのだろう。数瞬後、拒絶反応でも生じたのか、凄まじい勢いで光の蛇が暴れ出した。そのうちの一匹に打たれ、九十朗が撥ね飛ばされる。
 四郎を拘束していたものまで、ばらばらと解け始めている。
「何ということを……!」
 [五人目]が罵声を上げた。
 意識を失い、身動き一つできないかのように見えた四郎が、素早く上体を反り返らせた。その両手に握られた拳銃は、ぴたりとジャクムの瞳へ標準を合わせている。
 轟音が、連続して響いた。
 地響きにも似た苦悶の叫びが、洞窟に満ちる。
「ぐぅ……!」
 ジャクムへのダメージが伝わるのか、四郎が顔をしかめた。だが、その手は引き金から離れない。
 紅い光が、強まったり弱まったりし始めた。足を掬われたように四郎の身体が揺れる。
 しかし、既に九十朗がその場に辿り着いていた。
「四郎様!」
 手を伸ばしても、今度は弾かれない。胴に両腕を回し、力の限り、養父の身体を引く。
 ずるり、と身体がジャクムから抜け出した。よろめいた足元が、あやうく段差を踏み外しかける。
「大丈夫や、九十朗。……自分で立てる」
 片手を腕にかけて、告げる。気遣わしげに見つめられながら、身体を起こした。
「四郎様! 九十朗!」
 次郎五郎が小走りに近づいてくる。
「次郎、四郎様にヒールを……」
 肩越しに背後に視線を向け、九十朗が声を張り上げる。
「大丈夫やって。心配いらん。ちょっとふらつくぐらいや。むしろ、自分らを癒した方がええ。随分やられとるやんか」
 しかし、父親にすげなく断られた。
 幾度目か、中空に和音を描きながら、魔法陣が形づくられた。が、乳白色の光は途中で消えてしまったり、あらぬ方向へと飛んでいってしまっている。和音も、不快な響きを残して消えていく。
「ま、ここは確かに危ないか。ちょっと離れた方がええな」
 そう言って、黒衣の男はあっさり敵に背をむけ、軽い足取りで祭壇を降りていく。
「……四郎様……?」
 あまりにも警戒心がない。兄弟は呆気に取られていたが、慌てて後を追う。
 四郎は、十数メートル離れた辺りで足を止めた。
「ん。まあ、そろそろか」
 ジャクムに、まっすぐに向かう。神像は、未だ紅い光を点滅させている。
 スラックスのポケットに両手を突っこんで立つ男の足元から、一瞬で黒いもやが迸った。
 同時に、ジャクムの巨大な顔に、ひびが入った。それを広げながら、内側から突き出されてきたのは、漆黒の刀身の大剣だ。
 つい数分前、九十朗がジャクムの内部へ突き刺したものと同じに見える。ただし、サイズが違う。今目にしているものは、どう見ても、刀身の幅が三メートルはあった。
「……なん……ですか、あれ……」
 ぽかんと口を開けて、尋ねる。
「ジャクムは、ワシの『破壊』を増幅するて[五人目]が言うたやろ。ワシを取りこもうとしてる間、ワシから『破壊』の力をかなり吸い取っとった。あと、九十朗が突っこんだ剣やな。でも、今はあそこからワシが出てしもたから、その制御が上手く動いてへんねや。どこまでワシをこき使うつもりやったんかしらんけど、増幅機能しか持ってないとか手抜きもええとこやわ」
 喉の奥で、小さく笑い声を立てる。
「もうこれ以上は保たへんな。後は自壊していくだけや」
 その言葉を裏づけるように、ジャクムの頭部の、かなり大きな部分が落下する。
 呆然とする兄弟に視線を向け、四郎はその両手で二人の髪の毛をかき回した。
「よぅ頑張ってくれた。後はワシに全部任せぇ。お前らは、もう、何もせんでええから」
「四郎様?」
 訝しげな声に、答えは返ってこなかった。



 風来坊錬金術師は、退かなかった。
 苦痛に悲鳴はあげ、涙も流すものの、三郎太の要求には一切応じない。
 この強情さは、ひょっとして創造物全般に共通するものなのか、とぼんやりとトゥキが考える。一人、牢の中にいて、少々暇でもあった。
 冷めた視線で、三郎太が少女を見下ろす。出血は避けていたので、彼女自身はそう汚れていない。血を失い過ぎると、要求を飲もうとすることすらできなくなることがある。
 そう、これは復讐とは別次元の、作業だ。
 呻き、足掻き、藻掻いていた少女の動きが、ふいにぴたりと止まった。
「お父……さま?」
 訝しげに、視線が掌へと落ちる。
「お父様……、お父様ぁ!」
 絶叫と共に、錬金術師は跳ね起きようとした。勿論、そんなことは物理的に無理だったが。
 それでも念のため、その小さな身体を確保する。
「離して! お願い、離して! 行かなくちゃ、お父様が、お願いだから、何でもするから、何でも言うこと聞くから、だから行かせて、お願い! お父様ぁ!」
 錯乱したように泣き叫ぶ姿に、眉を寄せる。
「……何があった……?」
 小声で呟く。
「手がいるならいつでも貸しますよ?」
 離れた独房の中から、城主が呑気に声をかけてくる。
 この汚れ仕事に彼を関わらせるつもりはなかったのだが、事態が事態だ。
 どうしたものか、と三郎太は修羅場を目前に考えこんだ。



 ジャクムの高さは、最初に目にした時の半分ほどまで減った。
 四郎が、右手の方向に目を向ける。
「そろそろ離脱の準備か、[五人目]?」
 見ると、神殿の片隅、光の届きにくい暗くなった辺りに、[五人目]が移動していた。その奥には例の扉が傲然と存在している。
 無言で、老人は四郎を振り返った。
「錬金術師は、基本的に戦闘能力は皆無や。せやから、代わりに闘ってくれるものを作り出す。武器やら生命体やらな。それがなくなってしもたら、そりゃここにはおれへんよなぁ」
 嘲るように、四郎が続けた。
 [五人目]は反応を返さない。
「ええで。開けて、逃げ出したらええ。ジャクムを破壊できただけで、ワシももう満足や。結構疲れたしな。ワシの前からその薄汚い面ぁ消してくれるんやったら、それでええわ」
「四郎様!?」
 傍に控えていた兄弟が、驚愕の声を上げる。
 [五人目]の不審感が増した。だが、彼一人の力で三人を相手取ることができないのも事実だ。
 躊躇いを残しながら、手を燃え盛る隕石の紋章に伸ばす。
 その指先が触れた瞬間、扉と枠の間から、黒いもやが吹き出る。
 鋭く息を飲んで、[五人目]は数歩後退した。
 四郎が、歓喜の笑いを上げる。
「ああ、言うの忘れとったけどな。その扉の管理権。今はもう全面的にワシ一人のもんやから」
「四郎、貴様……、いつの間に」
 憎悪と、戸惑いを含んだ声が漏れる。
「ワシが息子たちに特攻みたいな真似させておいて、ずっと後ろに退がっとったんを全然変やと思いもせんかったんやろ? お前やったらそうするからな。せやけどその間、ワシはひたすら、その扉の設定を書き換えしとったんや」
「お前が、管理権を手にしたがっていたのは知っている。もう千年の間、その望みは挫かれていた。どうして……」
 四郎が、ゆっくりと歩き出した。その歩む後から、黒いもやがうっすらと足跡を残していく。
「今までワシが成功せぇへんかったのには、理由がある。まず、お前が現在使ってる扉で書き換える必要があることや。今回は、ばれへんように地中を『壊し』てルートを造らなあかんかったからな。あんまり一個所から移動できへんかった。あと、決定的やったのは、お前の生体データや。それを手に入れられんかったら、書き換えは完成せぇへん」
 これみよがしに、片手を鉤爪状に曲げる。つい数十分前、その指に抉られた痕が、まだ[五人目]の頬に生々しく残っている。
[貴様……」
「ついでに言うとくけど、入口の方もとっくに封鎖しとるからな。お前の娘がここに何人おるんか知らんけど、そいつらも扉の機能はもう使えへんやろ。押しかけてきても、邪魔はされへん」
 淡々と告げて、手にした拳銃を持ち上げた。機械的に弾倉を開け、中身を確認する。
 がちん、と弾倉を閉じ、真っ直ぐに銃口を向けた。
「さて、[五人目]−−フュンフ。そろそろ全部終わりにしよか」


 銃声が、響く。
 次の瞬間、[五人目]の足が弾けた。
「がぁあああ!」
 喚いて、がくん、と地面に崩れる。
 どれほど鍛えようと、ダメージを受けた時の反応は反射的なものだ。それを克服するのは、経験を積むしかない。つまりは慣れだ。
 自身での戦闘経験は殆どないであろう[五人目]にしては、最初の悲鳴の後で見苦しく足掻こうとしないだけ、大したものだといえる。
 ゆっくりと、四郎が足を進める。[五人目]から数メートル離れたところで立ち止まった。この距離で外すことはありえない。
 無言で、男は脂汗を流す創造主を見下ろした。
「……これは、致命傷では、ないぞ。四郎」
「せやな」
 短く返す。
 千三百年、追い続けた男が、今目の前に追いつめられている。逃げ場はない。生殺与奪の権利は、完全に四郎が握っている。
 その状況で何を思うのか、銃を握ったまま、男はしばらくの間無言だった。
「……なんで」
 唇が小さく動いた。
 [五人目]が眉を寄せる。
「お前も、それを訊くのか。訊いて、理解できるのか。納得ができるのか。こころが、揺らぐのか。お前の恨みはそんなものか!」
「やかましいわ!」
 怒声を上げて、引き金を引く。もう一方の足から深紅の液体が迸った。じわじわと、先の傷痕と共に白いローブを染めていく。
「自惚れんな。理由なんぞを欲しがるのなんか、もう八百年も前に終わらせた。お前の手を欲しがるのなんか、もう九百年も前に諦めた!」
 銃声が、響く。
「お前が恨みを晴らせるんか! [一人目]の、[二人目]の、[三人目]の、[四人目]の、四大賢者に創られた、全ての創造物の!」
 銃声が、響く。
「この千三百年の間に生まれて死んだ者たち全ての、この千三百年の間に創られて壊れた物たち全ての、この千三百年の間に生まれへんかった創られへんかったものたち全ての恨みが!」
 銃声が、響く。
「ワシに従ってくれた者たちの、ワシに巻きこまれてしもた者たちの、お前に従ってきた者たちの、お前が踏みつけにした全ての者たちの恨みが!」
 肩で、荒く息をする。
 [五人目]は、既に上体すら起こせてはいない。
「……できんよ、四郎。お前も、望んで、など、は」
 言葉に、掠れた笛のような音が伴っている。
「……ああ、そうや」
 長く、息をはく。
「これは全て、ワシのエゴや」
 そして、銃声が、響く。

 ……銃は、当たるか外れるかしかしない、武器だ。
 当たれば人が死ぬ、武器だ。
 銃声が、響く。
 響く。
 響く。
 気温が上がってきた気がする。汗が酷い。流れてきたそれが目に染みて、兄弟は強く目蓋を閉じた。
 響く。
 響く。
 響く。

 そしてどれほどの時間が過ぎたものか。
 ようやく、銃声が、止んだ。


 四郎は、無言で創造主を見下ろしている。
 [五人目]の白いローブは、白い髪は、白い髭は、もう赤黒く染まっていない場所を見つける方が困難だった。
 細い呼吸音に、喘鳴が混じる。
「……なんか、言い残しておきたいことでもあれば聞いといたるで。言い訳以外な」
 やがてぶっきらぼうに、そう告げる。
 苦しげな咳が、何度か発せられた。どうやら笑ったらしい。
「感傷的……なの、が、お前の、弱点だ。……だがまあ、言って、おくか」
 声は酷く掠れ、聞き取りにくい。しばらく呼吸を整えて、[五人目]が唇を開く。
「ジャクムを、倒したぐらいで、いい気になる……な。いつの日か、きっと、第二第三の」
「っちょっと待てやこらぁあああああ!」
 怒声を上げると、四郎はその場に膝をついた。服が血を吸うことも気にせず、胸倉を掴み上げる。
「なんやそれ、なんやねん! ひょっとして、あれレベルがまだおるんか!」
 苦痛に眉を寄せながら、しかし憎らしいほど楽しげな表情で、[五人目]は四郎を見上げた。
「場所、も、時期も、規模も秘密、だ。私が……死ん、で、ある程度の時間が、過ぎると、適当に発動する」
「なんやその適当言うんは!」
 四郎の声は、もう悲鳴に近い。
「追って、こい、四郎。お前、が、諦めたら、私が、世界を破壊、する。私の……勝ちだ。死んで、いても、な」
 水っぽい音が、笑いに混じる。
 そして、それが唐突に、止まった。
「ああ、くそ! おい、[五人目]! フュンフ! ……ああ、この、クソ親父が!」
 罵声を浴びせると、怒りのままに手を離す。ごとん、と音がして、最後の五大賢者は、もう身動きしなかった。

 長く、肺を空にするほど長く息をはくと、四郎はどすん、と傍らに腰を下ろした。視線は頑なに[五人目]から逸らしている。
 声もかけられず、兄弟はただ佇んでいた。
 彼らは気づいていなかったが、扉から溢れていた黒いもやが、ふいに消えた。出口も、そして入口も。
 瞬間、マグマの満ちた洞窟に通じるそれが、勢いよく開かれる。
「お父様っ!」
 悲鳴を上げて、駆けこんできた人影を識別した途端に、九十朗が疾った。消耗しているとはいえ、限界を破壊された身体で、数秒もかからずに風来坊錬金術師を組み敷く。
「離して! お父様! お父さまぁ!」
 悲鳴が、遠い天井に反響する。
 四郎は、こちらに視線も向けない。
 少女の瞳は、既に真っ赤だ。四郎が『扉』の管理権を掌握した時に、その異変に気づいていたのだとしたら、もうかなりの時間が経過している。
 九十朗は再び剣を失っていた。少女の武器が何であるか、彼はまだ知らない。だが、この体勢であれば、彼の戦闘能力は充分以上だ。籠手を嵌めた手だけで、事を済ませることができるだろう。
 細い腕も、細い足も、そしてその細い首も。
 泣き腫らした瞳は、ひたすらに遠い床で横たわる身体を見つめている。
 視線を、そちらへ向けた。
 つい先刻、自らの仇を討ち取った男がぼんやりと座りこんでいる。
「……次郎」
 掠れた声が、少女の泣き声の間を縫って、兄に届いた。
「何だ?」
 静かに返してくる兄は、弟の行動を止めるでもない。
「次郎。……生きてる、よな」
「ああ」
「四郎様も、生きてる」
「そうだな」
 軽く目を伏せた。どう決断しても、葛藤は収まらない、そんな気がする。
 だけど。
「うん。……俺、三郎太さんに何かがあったら、こいつを殺すよ」
「そうか」
 短く返して、次郎五郎が近づいた。手にしたナイフで、風来坊錬金術師のマントを手早く切り裂く。
「次郎!?」
 仰天して九十朗が名前を呼んだ。
「念のためだよ」
 露わになった少女の腕に、奇妙な器具が取りつけられている。次郎五郎は、単純に革のベルトを断ち切ることでそれを外した。
「よし。もういいぞ」
 ゆっくりと、九十朗が錬金術師の身体を自由にする。もどかしげに立ち上がると、彼女は一直線に創造主へと向かった。
「お父様! お父様!」
 老人の胸に縋りつき、叫ぶ。
 四郎が、初めて少女に視線を向けた。どこか不思議そうな表情だ。片手をぎこちなくその背に向けかけたが、途中で引き戻した。再び視線を背けると、煙草を咥えた。紫煙が、ゆっくりと昇っていく。

「お父様!」
 再び、同じ入口から同じ声が聞こえたのは、三十分もしてからだろうか。
 戸口には二人の人影がある。
「……愁嘆場ですね」
 汚れたローブに身を包み、酷く疲れた様子のトゥキと、肩と脚を露わにした服装の三郎太だ。流石にマグマ溜まりの洞窟を素足では歩けなかったのか、彼女はブーツを取り戻してきている。
 そして三郎太は、まるで荷物のように、一人の少女を肩に担いでいた。
「…………わあ」
 何だか色々な意味で目前の光景を否定したくて、九十朗が小さく呟く。
 三郎太が、少女を下ろした。泥に汚れ、幾らか身体を庇いながらではあるが、彼女もまっすぐに父親へ向かって走る。
 先に着いていた『妹』が、その身体を抱きとめた。二人の姉妹は、そのままひたすらに悲嘆に暮れている。
 四郎が立ち上がり、ふらりと部下たちの方へと歩き出した。
「おぅ。無事か」
「大体は。……では、決着はついたのですね」
 感情を抑えながら、三郎太が尋ねる。困ったような顔で、四郎はそれを見つめた。
「いやそれが結構ややこしいことになっとって」
「え?」
 訝しげに問い返すのに、肩を竦める。
「落ち着いたら話すわ。で、他の奴らはどうした? 無事か?」
「あ、はい。こちらへ来る前に、牢からはもう解放しました。ですが人数が多いのと、あの洞窟を全員で渡ることは危険だと判断して、一旦安全な場所に待機させています」
 姿勢を正して、トゥキが答えた。
「そうか。……無理をかけたな」
「いいえ。こちらこそ、至りませんで申し訳ありません」
 堅苦しくそう返す。
「じゃあ、まず、城塞に帰るか。『扉』の調整ができたら、すぐや。ちょっと待っててくれ」
 そう告げて、踵を返す。
 風来坊錬金術師たちは、[五人目]の遺体の傍にいなかった。

 見回すと、少女たちの姿は崩壊を続けるジャクムの前にいた。
「また何かするつもりなのか?」
「この状況で、何かできたら感心するわ」
 簡単に返して、四郎が足を向ける。
「そこ。危ないで。押し潰されたいんか?」
 びくりと身体を竦ませて、二人は四郎を見上げた。
「ひ……柩、を、せめて」
「お願い。お父様を、冷たい床で眠らせたくはないの」
 ジャクムの胸部を見る。今では紅い光は発していない。ただの石だ。……この枠から取りこまれそうになっていたのは、もう随分前のような気がする。
 幸いというか、枠は殆ど壊れてはいなかった。縁が少々欠けているが、大体はしっかり残っている。
「……そんなこと言うても、お前ら二人でどうにかできるんか。やっぱり潰されるだけやろ。それとも、顔に似合わず怪力だったりするん?」
 少女たちは顔を見合わせ、俯いた。
 四郎が小さく溜め息をつく。
「次郎! 九十朗! トゥキ……はええわ。力仕事やしな」
「……感謝しますよ」
 複雑な顔で、トゥキは返事をした。体調が万全ならともかく、今の自分の状態はよく判っている。
 代わりに、兄弟に三郎太がついてきた。
「三郎太さん?」
「お前はええって。休んどけ」
 家族の言葉に、肩を竦める。
「顔に似合って怪力なもので」
「……嫌みか」
 眉を寄せて、呟く。更にぶつぶつと何かを小声で漏らしながら、ジャクムへと向き直った。
 枠の縁と、それを押さえているジャクムの手の際に、すっと指を滑らせる。
 鋭利な切り口で破壊された枠は、ぎしりと軋んだ。
「反対側外したら前に倒れるやろうからな。気をつけて支えてくれよ」
「はい」
 同じ要領で、もう一度破壊する。ぐらりと倒れかけた石棺を、三人が受け止めた。
 慎重に祭壇から下ろす。限界を『破壊』されているとはいえ、流石に重い。
 床に下ろしたところで、錬金術師たちがマントを手に近づいた。内部に敷きかけるのを、次郎五郎が取り去る。
「何を……」
 抗議の声を無視して、自分のマントを外した。長身の青年のマントは、少女のものよりも面積が広い。
 苦笑いして、九十朗もそれに倣う。二枚のマントで底を全て覆うと、少女のマントをその上に一枚、敷いた。
「そろそろいいですか?」
 トゥキが、[五人目]の身体を抱き上げ、運んできていた。彼の歩む後に、血の滴が点々と落ちている。
「すまん」
 短い謝罪を受け流す。
「私はプリーストですよ、四郎様。死者を弔うのに、私に任せない理由はないでしょう」
 ゆっくりと、老人の身体を柩の中に横たえる。その顔からは、血の汚れが拭き取ってあった。
 手を胸の上で組み合わせると、錬金術師のマントをもう一枚、上からかける。
 少女たちの細い泣き声が、再び始まった。
 そこまで確認して、四郎が背を向けた。
 もう振り返ることなく、『扉』へと向かう。



 『凶津星の翼』のボス、[六枚羽根]が街を発ってから、三日後。
 エルナスに避難していた兵士たちの一部は、城塞へ辿りついていた。
 [六枚羽根]との約束では、今日出立が許されるところだったのだが、そこまで待てなかったのだ。全員で戻ろうとすると一日では到着しないということもあり、彼らは斥候という名目で、少人数で移動した。
 数日ぶりに目にする城塞は、酷く荒れ果てていた。吹雪も起きたのだろう、窓や扉が破壊されたところでは、廊下に雪が積もっている。
 当然ながら、生存者がいてその状況を放置している訳ではなかった。静寂だけが支配する城の中を、失望を抱えながら捜索していく。
 謁見の間の大扉に近づいた時だった。
 自分たち以外の声が聞こえてきたのは。

「ああ……、そう言えば、外から封じの呪をかけたんでした」
「更に閂もかけてましたね、そう言えば」
「何でそこまで厳重に戸締まりしとんねん……。内側からは開けられへんもんなんか?」
「呪だけなら、何とかなりそうですが」
「しゃあない。ぶち壊すか」
「蹴り開けますか?」
「炎をぶつけたら閂が消し炭になるかもしれませんよ」
「狡いですよ! 俺が武器持ってないのに、みんなで好き放題しようなんて!」
「どうして貴方がたご一家は、全員破壊衝動で物事を解決しようとするんですか!」
 斥候隊の隊長は、従ってきた部下と顔を見合わせた。
「……城主? そちらにおいでですか?」
 室内は一瞬静かになって、警戒したような声が返ってきた。
「誰だ? 所属は」
「第三分隊です。エルナスに移動しておりました」
「ああ、もう三日経ったんか。ええタイミングや」
 四郎らしき声が割りこんでくる。フライングした身ではややばつが悪く、それに関しての明言は避けた。
「ちょうどいい。呪を解除するから、平和的に閂を外してくれ。この後、順次全員が帰還してくる。速やかに準備を頼む。我々はまともな食事をしていない」
「了解しました。手配します」
 エルナスであれば、一瞬でミスティックドアを開くことができる。街で待機している兵士たちを呼び戻すのは簡単だ。
 矢継ぎ早に指示を下す隊長の背後で、呪が解除された。


 翌日いっぱいを、次郎五郎と九十朗は自室で過ごした。限界を破壊されたとしても、流石に疲労は簡単に回復できない。
 四郎とトゥキ、三郎太は帰ってきた直後から忙しく仕事をこなしている。責任の重さが違うといえばその通りだが、少し情けない。
 夕方近くになって、多少楽になった頃に二人だけでしばらく話した。やはり、九十朗には幾らか記憶の欠如がある。おそらくは、[五人目]に干渉された時の影響だろう。
 それには、エリニアで弟から距離を置こうと言われたことも含まれていた。
 慎重にそれを確認して、次郎五郎はその事実を自分一人の胸にしまっておくことに決めた。
 勿論、弟が、そして自分がいずれは自立しなければいけないことは判っている。だが、また自発的にそういう気分になった時でもいいのではないだろうかと思ったのだ。
 とりあえず、最大の危機を脱した、今でなくても。

 そして動けるようになった更に翌日から、兄弟は城塞の修復作業を手伝った。被害にあっていたのは建具が殆どではあるが、大きくは城門や地下のトンネルに繋がる大穴であったりする。本格的に直すには技師を使わなければならないので、それまでにできることと言えば瓦礫を撤去するぐらいだったのだが。
 順調に二日ほど経った日の夕飯時に、トゥキが苦々しげに口を開いた。
「苦情が、出ているんですよ」
「苦情?」
 話題に心当たりがなくて、問い返す。
「次郎殿と九十朗殿が、先頭に立って働かれていると、他の者の立場がないんです。休みなしで、朝から晩までらしいじゃないですか」
「……それは、苦情なのか?」
 働くことで非難されるとは思わなくて、問い返す。
「部下たちは、それぞれきちんと分担を決めて、無理のないように作業をしています。ただでさえ、お二人には先の戦いで我々の不始末を肩代わりさせたようなものなのですから、恐縮もしますよ」
「そんなこと思って欲しくはないんだけどな」
 困ったように、九十朗が呟いた。
「私が思っている訳ではありませんけど」
 そう断言されると、それはそれで複雑だ。
「……あと、もう一つ。修復のための作業だと判っていますよね? 更に破壊された場所が増えた、という報告もあるんですが」
 僅かに、兄弟が視線を逸らせた。今まで口を挟もうとしなかった四郎が、片方の眉を動かす。
「次郎、九十朗。ほんまか?」
「ええと、その……。少しは」
 嘘をつくとか誤魔化すとかできることではない。九十朗が控えめに肯定する。
 そもそも、先日『破壊』された肉体を、日常生活で上手く扱うのが難しいのだ。手加減はしているつもりなのだが、うっかり余計な力が入ってしまったりする。
「どちらにせよ、城内はほぼ全て、ゾンビたちに蹂躙されています。全面的に手を入れなくてはいけませんし、その間、トップがここにいらっしゃってもお邪魔をするばかりでしょう。大体、四郎様はもう二年ほど滞在されていますし、そろそろ河岸を変えられてもいいのではないですか?」
 やんわりと退去通告を受けて、家族は顔を見合わせた。
「ワシらはええとしても、あいつらをどうするかやなぁ」
 呟いて、考えこむ。
 二人の風来坊錬金術師たちは、現在城塞の一室で軟禁中だ。武器は取り上げているし、『扉』の機能は、四郎が許可しない限りは使えない。その結果、彼女たちは酷くおとなしかった。だが、[五人目]の遺したものたちに関する情報は一切漏らさないし、他の妹たちがどこで何をしているのかも話さない。
「あまり目を離すというのも不安ではありますが」
 思案げに、三郎太が意見を述べる。
 だが、彼女たちの『集団意識』は健在だ。『凶津星の翼』のトップと行動を共にしていて、情報が筒抜けになるというのは避けたい。
「それに関しては、少し待つか。明日にでも他の屋敷と連絡を取って、上手く扱えそうなとこに預かって貰えればええし。……そやな、ビクトリアには行かんとな。マンジに刀預けっぱなしやろ」
 次郎五郎に水を向ける。
「あ、はい」
 恐縮した返事に、四郎がにやりと笑みを浮かべた。
「あのお嬢ちゃんに会いに寄ってもええんやで?」
 不意打ちにそう振られて、絶句する。頬が熱くなったのは、気のせいだ。
 黙ってその様子を見ていた三郎太が、口を開く。
「私には内緒の話ですか?」
「……知らなくても、世界に影響はありません」
 素っ気なく返す。
「後でお話しますよ」
 にやにやと笑いながら、九十朗が囁く。無言で睨みつけるが、堪えた様子もなかった。
「あまり家族に内緒事が多いと、拗ねられるぜ」
 半ば諦めて、小さく溜め息を落とす。
「それから、メイプルアイランドに帰るか。榊も心配しとったから」
 四郎の言葉に、兄弟の顔が明るくなる。
 家族が一緒にいられるなら、場所がどこでも構わない。
 だけど、特別な場所というものは、確実にあるのだ。
 四郎も大きく笑みを浮かべる。

「家に帰ろうや。みんなで」






 城門の外、二十メートル四方程度は石畳で舗装されているが、それでも砂は街の中に入りこんでしまう。彼の足の下で、砂が擦れて音を立てる。
 フードを深く被った旅人が二人、マガティアを訪ねたのはある日の午後のことだった。

「どうぞ」
 周囲に水滴がついた、よく冷えた水を満たしたグラスをいきなり差し出されて、二人は瞬いた。確かに、それは夜明けからこっち、彼らが心底欲していたものだったが。
「三年五ヶ月と十二日ぶりデスね。ご無沙汰してイます。次郎五郎さン、九十朗さン」
 表情一つ変えず、ヒューマノイドAはそう言った。

「っっかー! 恩に着る!」
 一気に水を飲み干して、九十朗が歓喜の声を上げる。ちょっと呆れ気味に、それでも次郎五郎も水を半分ほど飲み下した。
「ありがとう、ヒューマノイドA。しかし、どうして俺たちがくるのが判ったんだ?」
 まるで待ち受けていたかのような歓待に、不審が募る。
「九十朗さンが、何キロも向こうから暑い暑いと零していらっしゃいマシたからね」
 だがあっさりと答えられて、九十朗が赤面する。
「まだ暑いですか? おかわりもありますよ、お兄さん!」
 子供特有の、甲高い声が傍らから響く。
 見下ろすと、小さな子供が片手に水筒を握り、もう片方の手をいっぱいに伸ばしてきていた。
「おお、キニ! 大きくなった……か?」
 九十朗の、微妙な言葉に、金髪の子供は頬を膨らませる。
「大きくなりました!」
 一見したところ、以前に会ったときとさほど変わらない。仕方がないのかもしれない。キニは、妖精だ。
 ヒューマノイドAが、軽くその身体を抱き上げた。
「大きくなりマシたよ。身長で五センチ二ミリ、体重で三千二百五グラム増えました」
 その正確な数値に、ちょっと引く。
「……お二人とも、お元気ソウですね」
 心なしかしみじみと告げられる。
「ああ。あの時は、本当に世話になった」
 三年前、兄弟がこの街を発った時、次郎五郎は、よく言って半死半生だったのだ。
 その後、二人は成長期を迎え、背はそれなりに伸び、身体つきもしっかりしている。九十朗は全身鎧に身を包み、巨大な大剣を背に負っているし、次郎五郎のマントの裾からは鞘の先端が二本覗いている。それが使いこなせる程度には回復しているとみてもいいのだろう。
「ところで、何のご用事デスか? 義眼を嵌めラレる決心でも?」
 左眼を失った時、ヒューマノイドAはそれを強く勧めていた。おそらく、自分が施術をしても手の施しようがなかったということに責任感を感じているのだろう。だが、当時きっぱりと断っていた次郎五郎は、今回も苦笑しつつ否定した。
「いや。ちょっと、仕事で来たんだよ」
「お仕事、デスか?」
「うん。協会長たちは、合同研究所?」
 九十朗が横から尋ねる。その施設は、彼らが去った後に設立されたものだ。どうして知っているのだろう、と思いながら、ヒューマノイドAは頷いた。


 合同研究所へ行き、来意を告げると、すぐに二人は協会長たちに面会できた。まあ三十分ほど待たされはしたが。
「久しぶりだな」
 二人の協会長は、記憶にある姿とさほど変わらない。マッドがやや、更に貫禄が増した気がするが。
「三年五ヶ月と十二日ぶりだそうですよ」
 青年たちは待っている間に手袋と籠手を外しており、その手で軽く握手する。協会長は、目聡く左手の甲に二枚羽根の隕石の紋章を認めた。
「昇進したようだな」
「おかげさまで」
 当時にかましたハッタリは、まだ有効だったようだ。にこやかに笑みを浮かべ、返す。
「この三年で、マガティアも豊かになったようですね。素晴らしい」
「自画自賛はやめた方がいい」
 苦々しげに言われて、肩を竦めた。
 三年前、二つの協会の長としていがみ合っていたこの二人は、多くの面で研究者というよりは政治家だ。百戦錬磨の古狸と言っていい彼らが、青年たちを前にしてやや落ちつかなげに見える。
 それは、青年自身ではなく、その背後の組織に対してだ。
 椅子に座り、老人たちをまっすぐに見つめる。
「さて、本日は貴重なお時間を頂いているのですから、早めに済ませてしまいましょう。我が[六枚羽根]は、マガティアの地下迷宮にある、封じられた扉の所有権を主張しています」
 次郎五郎の言葉に、長くため息をつく。
「……三年前、君たちがこの街に姿を見せてから、『凶津星の翼』に関して、我々も色々と調べてみたのだよ。十九年前にマガティアで起きた騒乱に、その組織は関わっていたようだね。そして、二度と関与はしないという文書が残っている」
 やんわりと牽制されるが、次郎五郎はマントの隠しに手を入れた。
「当時の協会長、アルケスタ様より、所有権を返還するとの書面を預かってきています。お二人にサインを頂ければ、これ以上お手を煩わせることは致しません」
 腰を浮かし、蝋で封印された封筒を、机の上を滑らせて協会長たちの前へ出す。
 何か言いたげだったが、無言でマッドがそれを取り上げた。ぱりぱりと赤い蝋の破片が散る。隣からカソンが覗きこんでいた。
 眉を寄せて、視線が青年たちへ戻る。
 不備はない。あの書面を手に入れるのに、一ヶ月はかかったのだ。
「[六枚羽根]は、マガティアという都市について野望を持ってはおりません。地上で何が起ころうが、関するところではないのです。ですが、地下迷宮は[六枚羽根]が正当に受け継ぐべき遺産であり、それを譲るつもりはありません」
 ボスが本心では譲れるものなら譲りたいと思っていることは告げずにおく。
「まだ何か疑問がおありでしたら、お早くお願いします。陽が暮れる前に、地下へ入ってしまいたいので」


 迷宮は、どちらかというと巨大な研究所だった。長い廊下の両側に時折小部屋が作られ、そこで研究者たちが探求を進めている。
 尤も、先へ進むにつれて、人気はなくなっていっているが。
「けど、[五人目]って、本当に地下が好きだよなぁ。アクアリウムだろ、エルナスだろ、スリーピーウッドに……」
「アクアリウムは地下って言っていいのか」
 九十朗の感想に、小さくツッこむ。確かに、海溝の更に下ではあったが。
「まあ、偶然だろう。メイプルアイランドもオルビスも地上だ」
 それはそうか、と弟は納得する。
 危険は少ないと推測されていたし、慣れてもきた。だが、やはり[五人目]の遺産に接触するのは、少々神経を使う。
 それを紛らわせようと、九十朗は軽口を叩いているのだ。
 廊下は、やがて突き当たりに巨大な扉を残して、終わった。

 鎖と鍵でがんじがらめに封じられた扉を開放する。鍵はアルケスタから受け取ってきた。
 ぎぃ、と鈍く軋みをあげて、扉は開いた。次の瞬間、壁に取りつけられたガラス球が、ぼんやりと明るくなっていく。
 静寂の中に、かたかたと小さな音が響いた。次郎五郎の太刀が、鞘の中で蠢いているのだ。
「ビンゴ、か」
 軽く呟いて、九十朗が足を踏み入れた。次郎五郎はマントを肩へ払い、手を太刀の柄へかけている。
「灯りが点くってことは、システムは生きてるんだよな。ということは漏れ出してるのか」
 次郎五郎はまっすぐ右手の奥にある『扉』へと向かった。鍔鳴りは続いているものの、やや小さくなっているようだ。
「……もしくは、逃げ出してしまっているのか、だ」
 ぐるりと室内を見回す。例によって広く、何もない。身を潜める場所すら。
「うやむやのうちに力技で封じこめた、って言ってたもんなぁ。ここでまだ動いてるんじゃないか?」
「十九年だぞ?」
 油断なく周囲を見回しながら、会話を交わす。
「えー。だって四郎様、前に三百年弱ぐらいならほぼ飲まず食わず眠らずで何とかなったって言ってたぜ。若い頃は無茶が効いたってしみじみしてた」
「……それ絶対若いせいじゃないだろ」
 半ば呆れて呟く。
 ゆっくりと室内を歩いていた次郎五郎は、鍔鳴りが突然大きくなって足を止めた。近い。だが、姿は見えない。
「上だ、次郎!」
 叫び声と同時に、太刀を抜いた。流れるように振り抜いたそれは、斜め上方を薙ぐ。
 剣の軌跡の上を、鞭のような何かが素早く天井の暗がりへ身を潜めた。
「……動いてたな」
 先端を斬り落としたらしい。細長い物体が、床の上で蠢いている。
「悪い方向にばっかり予想が当たるなぁ」
 苦笑しながら、九十朗が大剣を引き抜いた。
「アルケスタの証言から見て、おそらく創造物としても小物だ。本体はまだ扉の向こう側だろう。とりあえず片をつけるぞ」
 次郎五郎も、もう一振りの刀を抜く。
「よし! じゃあとっとと終わらせて早いとこうちに帰ろうぜ」
「異論はないよ」
 小さく同意する。
 そして兄弟は、共に異形へと剣を向けた。

2011/06/11 マキッシュ